幼なじみ




「ぼ、ぼく、ナオちゃんとけっこんしゅる〜」
「あー、ぼ、ぼくがナオちゃんをおよめちゃんにするんだ!」


俺の記憶が確かならば、今目の前にいるこの患者は、かつて俺と結婚するとわめいていた。
こいつは、そんなことを今も覚えているんだろうか。

「はい、後ろを向いてください」

肺の音を聴いてから聴診器をはずすと、俺は患者に向き直った。

「レントゲンを撮って、おそらく入院ですね」
「にゅ、入院ですか?」
「この状態では入院して治療しなければどんどん息が苦しくなりますよ」
「いや、しかし、今入院は…」
「レントゲンを撮ればもっとはっきりわかるかと思いますが、気胸ですね。
肺の一部が破れて肺を覆っている空間に空気がどんどん溜まるんです。それを抜かないと破れた肺は膨らみませんから、息が苦しくなるんですよ」

そいつは困った顔で考えた挙句、俺の顔を見ていた。
一度首をかしげて名札を見る。

「…入江?入江って、入江直樹?!」

俺のことにどうやら気がついたようだ。

「…そうですが」
「オレ、わかるかなー。高校まで一緒だった山田弘樹なんだけど」

…お前のカルテを持っているのだから、名前を言わなくてもわかるに決まってるだろ。
だいたい高校まで一緒だったにしろ、A組の俺がD組だったヤツのことなんかそうそう覚えてるわけがない。
覚えていたのは幼稚園でいつも俺の周りでうるさく騒いでいたからで、俺は無駄なことは覚えないんだ。
なんと答えようか黙っている間に、山田は自分で勝手に話を始めた。

「そうかぁ、医者になったのかぁ。頭よかったもんなぁ。いっつも一番でさ、凄かったよなぁ。
そう…言えば…」

気胸のせいか、長く話そうとすると息切れを起こしている。
俺は嫌な記憶に話が及ぶ前に話を戻すことにした。

「とりあえず、レントゲンを撮ってきてください」

俺は胸部のレントゲンの指示を出し、有無を言わさず目の前の患者をレントゲン室へ行くように促した。


 * * *


時々考える。
もしも普通に男として幼少時を過ごしていたら、とか。
少なくとも今の俺はいない。
同じように琴子と出会っても、今とはもっと違う関係だっただろう。
あの時…、家に帰っておふくろに罵声を浴びせた後、親父に頼んで髪を切ってもらい、男用の制服を用意させ、おふくろとまともに口をきくようになるまで1ヶ月かかった。
幼稚園は制服ができるまで登園せずにハンストをした。
おふくろもハンストには負けて、親父にも説得されて、俺は本来の姿に戻った。
おふくろはいまだに女の格好を捨てた俺を残念がる。
あれほどショックを受けた俺の心情を逆なでするようだ。
裕樹のときには同じ思いをさせないように目を光らせた。
斗南はエスカレータ式ではあるが、全員が上に行けるわけではない。
特に幼稚園ではそれが顕著で、今のようなお受験をしてまでの私立志向はなかったため、半数ほどは公立の小学校へ移っていったりした。
あの頃の俺を覚えているヤツは少ない。
少ないが覚えているヤツも確実にいるのだ。
中島映子は数少ない覚えている人間だった。


 * * *


山田弘樹は入院した。
既往歴からすると今までにも同じような症状が出たことがあったらしい。
結局胸腔ドレーン(作者注:胸腔に入れるチューブ。この場合吸引機につなげて排気を促す)を入れ、そのまま外科で様子を見ることになった。
場合によっては今後のことも考え手術を勧めることになった。
入院後は他の医師に主治医を頼むつもりだった。
しかし、ちょうど研修医も手がいっぱいで、結局俺が受け持つことになった。
あいつは覚えているだろうか。
あの話題が出たら、正直どういう反応をするか自分でも予想がつかない。

「ねえ、入江くん。
山田さんがねぇ、おかしそうにあたしのこと見るの。
なんかねぇ、昔のこと思い出すんだって。失礼よね〜」

琴子の言葉に俺は適当に返事した。
昔って、どれくらい昔のことだ?
そう聞きたかったが、寝た子を起こすのもなんだし、そのまま何も言わなかった。

「あ、日曜にねぇ、お義母さんが中島先生を誘ってたの」
「…聞いた」
「中島先生って…あれよねぇ」
「あれ?」
「うん…。頭よくて、美人で、優しそう。…沙穂子さんに似てるかな、少し」
「そうかな」

俺はそう思わなかったが、琴子がそう思うならそうなのかもしれない。
それっきり、琴子は何も言わずに俺の傍を離れていった。
俺はなんとなく琴子が歩いていった廊下を見ていた。


 * * *


思ったより遅くなって家に帰ると、琴子は仮眠していた。夜勤入りのためのようだ。
遅めの夕食を食べている間、おふくろは中島映子について話していた。
俺はさすがに眠くて仕方がなかったので、おふくろの話もまともに聞いていなかった。
迎えに行くふりをして顔を見に来るなんて、日曜に呼ぶまでもないだろうと思う。
中島映子の母親は都合が悪くて来ないことを話すと、途端に残念そうに口をつぐんだ。
寝室をのぞくと、相変わらず琴子はベッドの中にもぐって眠っていた。
一目顔を見ようと思ったのに、風呂に入っている間に病院へ出かけてしまった。
まだ行くには少し早い時間だったが、俺が帰ってきているのを知っていて顔を見ないで行くことが何やら少し気になった。
このときにもう少し気をつけていればよかったと後になって思った。
それでも、眠気には勝てずにそのまま眠ってしまった。
このところよく眠れなかったが、さすがに疲労がたまっていたのか、夢も見ずに眠った。


 * * *


翌日、外科の病棟に行っても琴子に会えなかった。
夜勤明けの琴子は、まるで俺を避けるかのように帰ってしまっていた。
一体何が悪かったのか思いつかなかった。
確かに最近の俺はイライラしていた。
仕事の忙しさもさることながら、昔の俺の記憶を引っ張り出されて気分は最悪だった。
だからこそ、琴子の笑顔を見たかった。
日曜には中島映子が家に来るとわかっているから本当は家にいたくなかったが、あまりにあからさまに避けるのもどうかと思うので、仕事がはいってしまえばいいと思っていた。
俺に昔の何を語れと?
ところが日曜は、しっかり休みだった。
もともと診療も休みな上に、都合のいいことに週末までに受け持ち患者も全て落ち着いた。
中島映子がキャンセルしてくれればと言う願いも潰えた。
おふくろは張り切っている。
琴子は…。
そうだ。
琴子がどう思っているのか、俺はあれから聞いていない。
話題にも出さない。
俺もあえて話さない。
琴子とは…そう、あれからまともに話す暇が全くなかったのだ。
あいつはもしかして今回のことを気に病んでいるのかもしれない。
「沙穂子さんに似てる」と漏らした一言が、今更ながら俺の胸を痛めた。
もっと早く気付けばよかった。
あいつが早とちりで、俺の愛情を常に疑っていることに、どうしてもっと気に留めなかったのか。

「すみません、山田弘樹さんの病室はどこですか?」

花を抱えた女が一人、ナースステーションに声をかけた。
見舞いらしいが、俺はその顔に見覚えがあった。
とっさに顔が凍りつく。
幼稚園であのときまで一緒に遊んでいた女だった。
俺は無駄なことは覚えない。
ましてや、幼稚園時代の出来事なんて思い出したくもなかったせいか、俺にしては記憶が曖昧になっている。もう、名前も今すぐには思い出せないというのに、あのときの顔だけは覚えていた。
近くにいた看護師が応対して、その女は山田弘樹の病室へと向かった。
おそらく山田弘樹の幼なじみになるのだろう。
考えすぎだと思うが、どんな会話が交わされるのか想像したくなかった。

「…先生」

「入江先生?」
「…ああ、はい」

外科の主任が書類を片手に立っていた。

「お疲れのようですね」
「…いえ、すみません」
「山田さん、ですが」
「…はい」
「やはり手術、でしょうね」
「そうですね。幸い今回もうまく行けばそのまま退院も可能でしょうが。」
「再発の可能性は大きいんですよね」
「ええ。外科医としては手術を勧めます」
「そうですか」

主任は去り際、俺に一言ささやいた。

「入江さん…、琴子さんね、最近覇気がなくて困りますわ」

主任にまで言われるようでは、琴子は相当落ち込んでいるに違いない。
…家に帰ったら、まず琴子に会って、それから…。
今、無性に琴子の笑顔がみたかった。


(2005/11/29)


To be continued.