幼なじみ




「それでね、お兄ちゃんたら、こう言ったのよ。『そんなバカなことはやらない』って。生意気な子どもよね〜」

あはは、うふふ、と楽しげに笑うやつら。
その輪の外で不本意ながらもコーヒーを飲んでいる俺。
その輪の中で、すっかり溶け込んでいる男。
ヤツは、琴子の幼なじみだと言った。
俺の知らないころの琴子を知っているヤツ。
そして、またしても琴子と話す機会を失った…。


 * * *


インターフォン越しに聞こえた男の声。
土屋と名乗った。
琴子はそれを聞いただけで、モニターで姿を確認もせずに玄関へと駆けていった。
様子を見に玄関へ行くべきか迷った。
ところが琴子はリビングのドアを開け放して行ったため、かろうじて会話は聞き取れそうだった。
玄関のドアを開けた琴子は、少し戸惑いながらも弾んだ声で言った。

「どうしたの、土屋君。よく家がわかったね〜」
「ああ、うん、これ…」
「あ〜〜!定期!」
「昨日の店に忘れていったから、困るだろうと思って」
「ありがとう」
「…パンダイの社長の家って言ったら、すぐにわかったよ。…凄いね」

そこまで会話したとき、隣に立っていたおふくろの顔が輝いた。
つい止めるのを忘れた。

「琴子ちゃん、こちら、どなた?」
「あ、土屋君は、昨日偶然会って…。お店で迷惑かけちゃって、おまけに定期まで届けてもらって、それから…、そ、そう、幼なじみなんです」
「幼稚園が一緒だったんですよ」
「まあぁぁ、琴子ちゃん、立ち話もなんだから、中へ入ってもらったらどうかしら?わざわざ届け物をしてくださったみたいですし。
ちょうどホームパーティをしようかというところなんですよ」
「あ、いえ、すぐに帰りますので。それにそんなときならお邪魔になりますから」
「いいえ〜、人数は多いほうが楽しいですし。さあ、どうぞ〜」
「う、うん、土屋君、せっかく来たんだし…。昨日言ってた入江くん紹介するね」

そうやって、土屋という男はおふくろに押されて入ってきた。
つまり、琴子の話を要約するとこうだ。
昨夜桔梗たちと入った店で、例のごとく酔っ払ってくだを巻こうとした。
ところが通りかかった男に酎ハイをぶちまけたが、思いがけずその男が土屋で、一緒に飲んでいた、と。
俺はソファに座ったままだった。

「どうも、はじめまして。えーと、土屋吾朗です」

そう言ってリビングに入ってきても、ことさら歓迎する風を装えなかった。
妻が知らない男と飲んでいたと聞かされて、歓迎する夫がどこにいる。
琴子は不安げに俺のほうを見た。

「はじめまして。入江直樹です。昨夜は妻がご迷惑をおかけしました」

やっと立ち上がってそれだけ言った。
琴子は渡された定期入れを持って首をすくめている。
今日届けられることがなければ、明日出勤するまできっと気づかなかっただろう。

「中島映子と申します。はじめまして」

中島映子は同じように立ち上がって、丁寧に自己紹介した。
俺があまりに不機嫌そうな顔でもしていたのだろうか。
自己紹介が終わってソファに座りなおすと、俺の顔を見て少し微笑んで紅茶に口をつけた。

「さあ、どうぞ。
他にももう一人弟の裕樹がいるんですけどね。好美ちゃん迎えにいったまま戻ってこないし。あ、好美ちゃんもかわいい子で…」

どうでもい話を延々と続けそうな勢いだった。
自分の話したいことを話し終えて、おふくろは手製のサンドイッチを土屋に勧めながら、興味津々で言った。

「えいこちゃんもね、お兄ちゃんの幼なじみなんですよ。それで今日は久しぶりに来てもらってね」
「それでは、余計にお邪魔では…」
「あら、琴子ちゃんの小さなころの話聞きたいわぁ」
「ああ、それなら…」

…そうやって、土屋吾朗は話し出した。
それは、琴子の話となんら変わらない範囲の琴子の姿だった。
俺は、どこかにほっとしている自分を感じていた。


 * * *


おふくろがアルバムを出してきたときには、なんとしても阻止するつもりだった。
しかし、さすがに幼少時のものは出てこず、幼稚園以後、中島映子も琴子も知らない俺の姿だった。
幼稚園での一件から、俺の生活は一変した。
身の回りにあったかわいらしいものは一切なくなり、ぬいぐるみの類は全てどこかへ消え去った。
かと言って親父が会社から持ってきた合体ロボットのおもちゃの類にも興味を示さず、そのくせおもちゃに対しては大人顔負けに批評する、『生意気な』子どもだったわけだ。
中島映子は言った。
もしも俺が『なおちゃん』でなかったら、友達だったかどうかはわからない、と。
それを琴子はどんな思いで聞いていただろう。
いつもなら手に取るようにわかるのに、今日は表情が読めない。
前にもこんな気分を味わったことがある。
そんな気分を味わうときは、いつも琴子に関してだったことに今更ながら気がついた。

琴子は土屋吾朗と楽しそうに話している。
それにはおふくろも混じっており、俺がとやかくとがめることはないだろうと思う。
俺は俺で、せっかく来た中島映子を放って置くわけにはいかない。
もちろん呼んだおふくろはそんなことは承知で、決して中島映子をないがしろにはしていないし、中島映子のほうもそんな風には思っていないだろう。
それなのに、俺は一人で疎外感を味わっていた。
こういう時間を素直に過ごせないのは昔からだ。
一時よりはましになったものの、騒がしさから何とかして逃れようとする俺がいる。
そして、いつもなら俺を巻き込もうとする琴子が、俺に遠慮していたのだ。
そのうちどうにも収まらなくなり、俺は話をさえぎるのも構わずに言った。

「琴子、ちょっと来いよ」

俺はそう言いながら2階へ行くよう促した。
いくら俺でもおふくろや客の前で話すほど血は上っていない。
琴子は話をさえぎってまで俺が話したいことが何なのか、よくわからないといった表情で2階までついて来た。

「お前が何を気にしてるか知らないが、中島先生とは今日会ってわかったように、昔はともかく今は仕事上での付き合いだけなんだ」
「…そんなこと、わかってる」
「わかってるなら、何をそんなに気にしてるんだ」
「…入江くんは、いつも小さかったときのことを嫌がってるけど、もしも入江くんが普通に男の子として育っていたらって考えたら…」

そこで琴子は言葉を切った。
できればその先の言葉は聞きたくない気がする。

「あたしと入江くん、こんな風になっていなかったかもしれないって」

いつもの俺なら「そうかもな」と軽くかわすだろう。
しかし、今日は。

「いや、結局はこうなってたよ」

俺は本当にそう思って言った言葉だった。
しかし琴子は俺と目を合わせずつぶやいた。

「そうかな」

俺はため息を一つついて言った。

「俺にとっては確かにあの頃のことは思い出したくもないくらいだ」
「それもわかってる」
「じゃあ、何がだめなんだ」
「だめとかじゃなくて」
「それならどうしてほしいんだ」
「…入江くんって、頭がいいのに、どうして人の気持ちわからないの?」
「だから、それは俺が…」
「思い出したくもない頃の思い出の中にいる人の気持ちは?
もしあたしが中島先生だったら、すごく哀しい」
「中島先生はそんなこと言ってないだろう。第一そんな風に言う人じゃない」
「…そうかもしれない、けど」
「それに、今はそんな話は関係ないだろ」
「…入江くんの、バカ!」

琴子は勢いに任せてそう言うと、部屋を走り出ていった。
伸ばした手は空を切った。
普段からは想像もつかないほどすばやく階段を駆け下りていく。

「琴子!!」

階下に向かって大声で怒鳴る俺の声と、玄関のドアが大きな音を立てて閉まるのが同時だった。
リビングからとがめるような顔が3つ、のぞいていた。


(2006.02.09)


To be continued.