幼なじみ




玄関の扉が閉まっていくのを見た。
リビングからのぞいた顔から目をそらすと、階段を駆け下りた。
おふくろが何かわめいたが、聞く余裕もない。
おふくろに言われるまでもなく、今度ばかりは追いかけなくてはいけない。
そんなことわかっている。
靴を足に引っ掛けるようにして外へと飛び出す。
家の門から左右を見渡す。
琴子の姿はもう見えない。
もしかしたら、追いかけるのを見越してどこかに隠れていないかとも思った。
わき目もふらずに走り出て、はっとしてわれに返るのはもう少し先か。
琴子が行きそうなところを考える。
近所の公園、桜並木の下、イチョウの通り。
お金は持って出ていないはずだから、バスには乗らないだろう。
…ただ、琴子のポケットには、多分返されたままの定期入れが入っているはずだ。
きっと行くところを思いつかなくなって、定期でどこかへ行こうと考えるだろう。
俺は一度家へ戻って財布をズボンのポケットに突っ込んだ。

 * * *

駅に着いてすぐに辺りを見回す。
駅までの道に琴子の姿はなかった。
改札を抜け、ホームへと入る。
もし行くならば、お義父さんの店か同級生のところか。それとも金之助のところか?
ふと顔を上げたホームの向こうに、琴子の姿があった。

「琴子!!」

叫んだが、運悪く電車が入ってきた。
俺の声は騒音にかき消された。
琴子はうつむいたまま気づかない。
俺は今来た階段をもう一度駆け上がる。
間に合わないとわかっていても、反対側のホームへと急ぐ。
琴子のいた場所にたどり着いたとき、電車は再び騒音を立てて走り去っていった。
こちらを見ようとしない琴子。
小さく消えていく電車。
ホームに吹く風はむっとした暖かさで、とても気持ち悪かった。


 * * *


その日、琴子は帰ってこなかった。
おふくろには友だちの家に泊まると電話があったらしい。
心配そうなその電話を終えた後、当然矛先は俺に。
俺はいつものように黙っていた。
もちろん俺は電話であちこち探した。
しかし、いつも琴子が頼る同級生のやつらの家にはいなかった。
いや、正確には一度訪れたらしい。
しかし、家に帰るというのでそのまま見送ったと。
それからどこへ行ったのか。
そこまでして俺に会いたくないのかと愕然とした。
たぶん俺に言葉を投げつけたままで顔を合わせにくいのだとは思う。
俺が飛び出した後、二人の客は早々に帰った。
それは当然だろう。
翌日、ひどい気分のまま仕事場へ行く。
翌日の琴子の勤務は休みだった。
琴子が会いに来なければ、病院内で会う機会もない。
こんなにすれ違う気分を味わったのは、…あの時以来だ。
あの時、俺は琴子をもう少しで失うところだった。どうしようもない嫉妬のせいで。
今度はもっと最低だ。
嫉妬どころじゃない。俺のトラウマに琴子は振り回されている。
今手を離すわけにはいかない。
しかし、責任のある仕事である以上、代わることができない今この時、琴子を追いかけることさえできない。

「入江先生…」
「ああ、はい」
「…三度目です」

少し厳しい声で中島映子は言った。
外来が終わって閑散とした廊下だった。

「…午後は帰られたらいかがですか。私が代わりになるのならやっておきます」
「小児科のほうはそれでもいいんですが」
「…外科ですね。それはさすがに私も無理です」
「…そうでしょうね」
「もし私が小児外科だったら、きっと全部押し付けて帰ることができるのでしょうけど。…いえ、入江先生の代わりは私では無理かもしれませんね。
どちらにしても、入江先生がそんな風になるなんて…」
「あきれましたか」
「驚きましたけど…、とてもいいと思いますよ」
「いい、…ですか」

エレベータのボタンを押して、俺を振り返る。

「人間らしくて、暖かみがあります」
「仕事もままならないのに」
「ええ。私、完璧な入江先生しか知りませんでしたから」
「仕事の上では完璧でありたいですね」
「私も幼い頃は少々生意気なところがありましたから、両親が離婚したときにはそれはショックだったのです」
「…それで姓が…」
「いえ、それはまた別の理由ですけど。それから少しだけ変わりました」

着いたエレベータに乗るのに少しだけ躊躇した。
エレベータの中は蒸し暑くて、昨日のホームでの風を思い起こす。

「琴子は、俺があの頃のことを嫌がるということは、あなたとの思い出をなしにしてしまうことだと」
「そうですか。仕方がないですよね。誰でも思い出したくない出来事はあります。
でも、それで今の入江先生が出来上がっているのなら、それもいいかもしれないと今思いました」

珍しくエレベータはどこにも立ち寄らず、するすると医局のある階までたどり着いた。

「琴子さんが、とても、大事なんですね」
「…ええ。たぶん自分の存在以上に」

そうだ。
俺は俺自身をあまり好きだと思っていない。
結構自分はどうでもいいと思っている。
ただ、琴子が泣くので。
俺に何かあると、琴子がどうにかなってしまうので。
だから俺は自分を大事にする。

エレベータを降りると、電話が鳴った。

『入江先生、気胸の山田さんが、チューブをつけたまま外出したみたいなんです』

…その日、俺はどうしても琴子を追いかけることができなかった。


(2006.04.18)


To be continued.