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昼食を配りに行ったら、患者・山田弘樹はいなかったらしい。
同室の患者も気づかないうちに外へ出たらしい。
慌てて自宅に電話したが誰も出ず、仕事場に連絡をしたら、…いたのだと言う。
しきりと仕事がどうのとは言っていた。
「とにかく、至急帰ってくるように言ったんですか」
「ええ。お母様が連れて帰ってくるようです」
師長は心配そうにため息をついた。
「気づかなくて申し訳ありませんでした」
「…いえ。忙しそうなのはわかっていたんです。私の説明不足だったかもしれません」
俺は意識的に避けていたのかもしれない。
それでも、治療方針に従ってくれないようでは、今後の治療に差し支える。
「師長!山田さんのお母様から山田さんの様子がおかしいと…」
ひとりの看護師が電話を受けて師長に報告する。
もちろんそばにいた俺もその言葉に緊張した。
「もうすぐ着くそうです」
「救急外来に行ってもらって」
「はい、伝えます」
俺はすぐに救急外来へ向かった。
師長も他の看護師に指示をしてから後を追いかけてきた。
「何があったんでしょう」
「チューブに何かあったのかもしれません」
エレベータを待っていられないので、階段を駆け下りる。
救急外来に着いたとき、多分山田弘樹の母と思われる女性が慌てて駆け込んできた。
「弘樹が、なんだか顔が真っ青で」
そのまま女性の横を駆け抜けて、ストレッチャーを押す看護師と共に玄関へ急ぐ。
玄関に横付けされた車の後部座席には、ぐったりとした山田弘樹がもたれかかっていた。
明らかにチアノーゼ(呼吸機能が低下して皮膚や唇が蒼白になること)があり、様子はおかしかったが、意識はしっかりあるようだった。
ストレッチャーに移して、ひとまず呼吸音を聴く。
気胸を起こしているほうの肺はかろうじて聴こえるが、正常だったはずのもう片方の音が聞こえない。
「もう片方も気胸かもしれない。レントゲン…いや、このまま手術室へ」
ストレッチャーを中へ運び入れながら、近くにいる看護師に手術室の手配や検査の指示をする。
同時に手術の助手についてくれる医師を電話で依頼する。
めまぐるしく動きながらも、頭の中は手術の手順を思い描く。
そして、目を閉じた瞬間、琴子を思い出した。
『入江くんがいれば、怖くない』
こんな風に緊急手術になったとき、大丈夫かと聞いた俺にそう答えた。
違うんだよ、琴子。
手術に向かうときに支えにしているのは、俺のほうなんだ。
『入江くんなら、絶対大丈夫』
その根拠のない自信はどこから来るのか知らないが、琴子が言うと本当にそういう気がしてくるから不思議だ。
それでも、俺はその言葉を支えにしている。
夢もなかった俺に、夢を与えたのはお前なんだ、琴子。
それなのに。
手術室の明かりが、やけにまぶしく感じられた。
* * *
手術が終わると、心配そうに先ほどの女性が俺に駆け寄った。
「ありがとうございます。山田弘樹の母です。
…本当に勝手なことをしでかしまして、すみませんでした」
手術衣の帽子を脱ぎながら答える。
「両肺の気胸で呼吸困難になっていました。維持療法も考えられましたが、今後のことを考え手術を選択させていただきました。
驚きになったことでしょうが、今後同じことが起きる可能性は少なくなりました。
…では」
それだけ言って立ち去る。
「本当にありがとうございました」
背中に頭を下げているらしい山田の母の声がくぐもった。
山田の母は、昔の俺を覚えているだろうか。
そんなことはまったく感じさせず、ただ、医師としての俺を見る。
そんな昔のことにこだわっているのは、俺だけなんだろうか。
普通の人は、そんな昔のことは忘れてしまうものだろうか。
自分のやけにいい記憶力が嫌になる。
着替えて外科の病棟に行くと、青い顔をした女が目に付いた。
この間見舞いに来ていたあの女だ。
看護師を捕まえ、山田弘樹の病状を聞いているらしい。
俺はその横を無言で通り過ぎる。
声をかけられないようにまっすぐに前を向いて。
ナースステーションへ入る直前、すれ違った俺に気づいた看護師が俺に声をかけた。
「入江先生」
看護師はほっとした顔をする。
俺がゆっくりとそちらのほうを見たからだ。
看護師がもう一度口を開く前に、あわただしい様子で山田弘樹の母が来た。
手には缶コーヒーを持って。
「サエちゃん、来てくれたの」
「おばさん…」
「大丈夫よ。そちらにいらっしゃる入江先生が手術してくださったらしいから」
サエと呼ばれた女は、俺を認めて少し微笑んで頭を下げた。
俺も軽く頭を下げて、そのままナースステーションへ入った。
サエ…、そんな名だったかもしれない。
俺にとってとるに足らない、そして、忌むべき記憶。
そんなものにいまだ縛られているのは、おかしいのかもしれない。
なぜ人は簡単に忘れてしまえるのだろう。
* * *
その日の夜も遅く帰った寝室のベッドに琴子の姿はなかった。
いったいどこへ行ったのか、見当も付かなかった。
一瞬、電話をかけようとして思いとどまる。
時刻はすでに夜中を過ぎている。
明日は多分帰ってくる。
そうは思っても、ベッドの空間を無意識のうちに手で確かめる。
夜勤でいないときもあるというのに、この落ち着かない気分はぬぐえそうもない。
琴子は俺が行方を探すのを待っているのだろうか。
ベッドで眠るのをあきらめて、寝室を出る。
琴子がいないと眠れないだなんてこと、あるわけないと思っていた。
そう思っていたのに…。
(2006.06.03)
To be continued.