幼なじみ




翌日、思うように眠れなかった身体をほぐして病院へ出かける。
一晩電話もなく、手術患者はみな落ち着いていたようだ。
早朝の空気を吸い込んで、頭を振る。
そして着いた駅のホームで琴子の姿を見た、と思った。
こんな早朝で、とか思うまもなく、俺の足は琴子がいたと思われるほうへ走り出した。
でも、いなかった。
気のせいなのか、見間違えだったのか。
琴子が出て行ってから、俺は今まで以上に琴子のことを考えている。
神戸に行ったときもこれほど琴子のことを気にかけたことはなかった気がする。
人に天才だなんだと言われたこともあるが、そんな賛美に何の意味があるだろう。
唯一、琴子のことだけは思うようにいかない。
今まで言いたいことは結構言ってきたつもりだったのに、琴子にだけはいつもうまく言えないし、伝わらない。
病院へ着く頃、雨が降り出した。
少しだけ曇った空を見上げて、ため息をついた。
琴子が雨にぬれていなければいい。
…泣いていなければ、いい。


 * * *


「琴子さん、まだ帰っていらっしゃらないんですね」

俺の様子に気づいた中島映子は、そう言ってため息をついた。

「今日は夜勤だから、夕方には会う」
「…そうなんですか」

いつもはプライベートなことに口を出さない人だったが、今日は珍しくそう言って俺を見て笑う。
好奇心だけで聞いているのではなさそうだ。
あまりにも俺が不甲斐ないせいか。
実際他の誰も俺の様子をとがめる人はいなかったが、様子を知っている中島映子だけが俺の変化を知っていることになる。

「外科へ行きにくいことに何か関係があるのですか」
「…気づかれていましたか」
「なんとなく、です。外科からの電話に出るのをためらったり、小児科にいる時間が長くなりましたもの」
「それは…」
「…だめですよ、私なんかに話しては。一番に琴子さんに話してあげなくては。多分それを本当に心配しているのは琴子さんなんですから」

俺は言葉もなくただ中島映子の顔を見ていた。

「まったくナオちゃんときたら、肝心なことはいつも黙ったままなんですね。…というより、自分でそうと気づいていないのが一番の曲者ですけど」

中島映子はおどけてそう言った。

「さ、夕方まではまだ間がありますから、今のうちに手早く仕事を片付けて、琴子さんとゆっくり話ができるようにしたほうがいいんじゃありません?」

その言葉に俺は猛然と仕事を進めることにした。
今度こそ、必ず琴子を捕まえる。
きちんと話をする。
もしも現れなかったら、今度こそ何をおいても探しに行こう。
そう心に決めて。


* * *


中島映子の提案のおかげで、前よりもずっとマシに仕事が進んだ。
昼を過ぎた頃、家に一度電話をして琴子の帰宅を確認してみた。
さすがに勤務があるので今から帰ると電話があったらしい。
おふくろはうるさくわめいている。
言い訳するのも疲れるので、そんなに言うなら琴子を引き止めておいてくれとだけ伝える。
電話を切ってすぐに帰り支度を始める。

「入江先生、帰られるんですか?」

医局で他の医師から不思議な顔で尋ねられる。
普段途中で帰ることなどめったにないからだ。

「いえ、ちょっと用事ができまして」
「何、入江が帰る?確かに患者は落ち着いてはいるが…。
おお、そうだ。もし入江の患者に何かあったら僕が対処してあげようか。
その代わり対処1回につき琴子ちゃんとのデート1回というのはどうだ?
ん…いてっ」

俺は無言で指導医・西垣の足を蹴飛ばした。

「ちゃんと午後の有休はとってありますし、何かあったら佐藤先生に頼んでありますので。では」

医局を出て行くときに聞こえた指導医・西垣の声。

「どうせ琴子ちゃんのことじゃないのか?」
「いや、最近調子悪そうでしたよ」
「そうか〜?その割にはかわいげのない…」

どうやら自分で思っているよりも傍目にはまいって見えるらしい。
一人苦笑しながら病院を出た。

 * * *

家に電話したが、琴子はいまだ帰っていない。
傘を手に駅に向かって歩く。
改札を通ろうと定期を探ったとき、聞きなれない声で名を呼ばれた。

「入江さん」

振り向くと、この間うちに来た男だった。

「土屋です。この間はお邪魔してすみませんでした」
「いえ」

急いでいるので、とそのまま改札を通ろうとした。

「琴子ちゃんなら、僕のうちにいますよ」

俺は口を開きかけて、土屋の言葉に固まった。

「ああ、別に琴子ちゃんが僕を頼ってきたわけじゃなくて…。偶然会ったんですが、帰りづらそうだったので」
「そう、ですか」

周りは俺たちを避けて改札を通っていく。
こんなところで立ち止まって邪魔な…とでも言いたげだ。

「迷惑をかけてすみませんでした」

やっとのことでそう返した。

「迷惑って言うより、楽しかったですよ」

その言葉に、感謝どころか怒りを含んだ目でそいつを見ることになった。
この暗くもやもやとした気持ちには覚えがある。
嫉妬、というやつだ。
琴子を泊めてもらったことはお礼を言うべきだろう。しかし、妻を男の家に泊めてもらって喜ぶやつはそういない。少なくとも、俺はこれ以上奴の顔を見ていたくなかった。

「琴子ちゃんの言ったとおり、あなたは人に相談したりするのはすごく苦手らしいけど、時には頼ってもいいんじゃないかな。もし、本当に琴子ちゃんが大事なら」
「あなたに言われるまでもないですね」
「…うん、そうかもしれないけど。やっぱり友人が泣いているのを見るのは嫌なんでね」

アドバイスなのか嫌味なのか、それだけ言ってそいつは駅の外へと向かって歩いていった。


 * * *


「琴子ちゃん、待ってちょうだい!」

玄関のドアを開けようとすると、中からおふくろの叫ぶ声が聞こえた。
すぐにドアが開いて、立っていた俺の胸にまともにぶつかる人間がいた。

「入江くんにばっ!!だったたた…」

ば?

鼻を押さえて顔をしかめる女。
前を見ずに、しかも何事か話しながら玄関から出ようとしてぶつかったらしい。
ぶつかったせいで何を話そうとしていたのかは全く意味不明だったが。

「い、入江くん…!あの、えーと、何で今ここに…」

昼間に俺がいたのが相当驚いたらしい。
琴子は逃げようとしていたことも忘れて俺を見上げている。

「いつまで逃げるつもりだ?」
「逃げようなんて、そんな…」

そう言いながらもかなり挙動不審だった。

「まあ、いい。やっと会えたんだから、話がある」

俺は琴子の腕をつかむとそのまま家の中に入り、寝室へと琴子を追いやった。
琴子の顔は心なしか青ざめている。
俺はこれ以上逃げられることのないように後ろからついていき、おふくろには大事な話をするからくれぐれも2階に上がってくるなと釘を刺した。
おふくろは何を勘違いしたのか、
「邪魔はしないわよ〜」
とうれしそうに笑った。
琴子は妙におびえて、怒って出て行った割には縮こまっていた。
部屋に入ると、今度は飛び出していくことがないように鍵をかける。
いよいよ琴子はおびえて、青ざめている。

「琴子」

声をかけると見た目にも明らかにびくっと肩を震わせた。


(2006.07.16)


To be continued.