斗南大学病院白い巨塔



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琴子は週末にのんびりと勤務をしながら、例の杉田のいる部屋に検温に訪れた。

「杉田さん、検温ですよー」

杉田はぼんやりと窓のほうを見ている。
週末のせいか、比較的回復者の多いその大部屋の患者は外泊者や面会者も多く、検温時だというのにがらんとしていた。
その中で杉田一人がぼんやりと窓辺のベッドにいたのだった。

「杉田さん、調子はどうですか?」

杉田は琴子の呼びかけにようやく顔を向けた。

「調子はもう、いいです」
「そうですか」
「来週には退院ですからね」
「…はい」

琴子は元気のなさそうな杉田の返事を気にしながらも、検温をこなしていく。

「他の方はどこいっちゃったのかしらねー」
「面会の方と一緒に出て行かれましたよ」
「そうですか。検温のときにはいてくださいって言ってるんだけどなー」

琴子は検温の結果を手持ちの用紙に書き込みながら、杉田の様子を伺う。

「奥さんは…あ、お店ですよね、今は」
「…すいません」
「え?」
「うちのやつがとんでもないことを言い出しまして」
「…いえ、そんなことはいいんですよ」
「柳田先生にも顔向けできなくて…」
「柳田先生こそ、申し訳なく思っているみたいですよ。
入院が長引いてしまったことや、おうちの事情もあるでしょうし」
「はあ、そうなんですよね。うちのやつもどうしてあんなに意固地になってるんだか…」
「お弁当屋さんでしたっけ、杉田さんのお店」
「そうですよ?それが何か…??」
「いいえ。おいしいんだろうなぁと思って」

琴子はなんとなく含み笑いをして、杉田の検温を済ませ、部屋を出て行った。
全ての検温を終えてナースステーションに戻ると、同じく勤務をしていた桔梗に近寄った。

「ねえ、モトちゃん。帰り、ちょっと付き合ってくれないかなー?」

桔梗はその怪しげな琴子のおねだりにすかさず「いや」と答えた。

「えー、ちょっとだけだから」
「何よ、そのちょっと、って」
「うーんとね、今日はお弁当買って帰ろうかと思って」
「あー、そう。あたしにも弁当一緒に買えって?」
「うん、そう。あ、でも、別に買わなくても付き合ってくれるだけでもいいんだけど。…ダメ?」

桔梗は琴子のたくらみに気がついたが、一人にして余計なことをさせるよりは監視したほうがいいという結論にたどり着き、結局はため息をつきながらこう答えた。

「仕方がないわねぇ。付き合ってあげるわよ。その代わりドジしないで早く仕事終わらせるのよ?」
「うん!じゃあ、あともう一息がんばろー!」

妙に張り切りだした琴子に不安を覚えながらも、桔梗も直樹と同様に結局は琴子のお願いに逆らえない自分を恨めしく思ったのだった。

仕事も終わり、いざ弁当屋へ向かう琴子に一言苦言を呈しておこうと、桔梗が息を吸い込んだそのとき、「あ、柳田先生だ」とつぶやいた琴子の声に桔梗は琴子への苦言を忘れることになった。
柳田の傍には妙になれなれしい女が立っており、桔梗は歯ぎしりする思いで植木の陰から見守る羽目になった。

「誰、あれ?」
「さあ、誰だろう。でも、柳田先生恋人いないって言ってたよ」
「…なんで琴子が知ってるのよ」
「え?この間入江くんにお弁当作って持っていったときにす…こ…し…」
「…なんで、あんたには入江さんがいるのに、いっつもおいしい思いするわけ?」
「おいしいって、そんな…。あ、ほら、話し終わったみたい」
「ふふん、どうやら誘って断られたって感じね」

何やら納得顔の桔梗と共に再び弁当屋へ向かうのだった。

弁当屋は公園の向かいにあり、それなりに繁盛しているようだった。
琴子と桔梗はそれぞれメニューの中から弁当を選んだ。
もちろん琴子はきょろきょろと落ち着きがない。
奥から出来上がった弁当を持ってきたのは、それこそ琴子が待ちわびていた人だった。

「はい、日替わりと豚のしょうが焼きでしたね」

表面上愛想よく弁当を手渡しかけたその人は、桔梗の顔を見て急に顔を引きつらせた。
桔梗はそれを見て、あたしの顔で引きつるなんて失礼ね〜などと思ったが、看護衣を着ていなくても一目で斗南大の看護師だとわかるには、桔梗のほうが印象が強かっただけだ。
琴子はニコニコしながら弁当を受け取る。

「杉田さん、もうすぐ退院なのに元気がなくてちょっと心配なんです。もしお暇がありましたら、今日も行ってあげてくださいね」

琴子の言葉に驚いたように目を見張る。

「…言われなくても行きますけど」

少し声を抑えて、弁当屋の女主人・杉田の妻は言い返した。

「良かった」

杉田の妻は二人に早く帰ってもらいたそうだったが、他の従業員の手前、黙って琴子から視線をはずしただけだった。

「あたし、杉田さんがどうして訴えたいのかなって、少しだけ考えたんです」
「ちょ、ちょっと、琴子…」

慌てたように桔梗が琴子の袖を引っ張る。

「早く杉田さんに退院して帰ってきてもらって、お店一緒にやりたいだけなんですよね」
「…はあ?」

桔梗は思わず袖を引っ張ったまま、思わず呆れた声を出してしまった。
その答えには身構えていた杉田の妻も少し呆れたように琴子を見返している。

「え…、だって。
入江くんも認めるくらい柳田先生の手術は完璧だったし、腸閉塞の診断も処置も早くてすぐに良くなったし、傷口だって凄くきれいだし。
奥さんが訴えたくなったのは、早く杉田さんが帰ってこれなくなったせいでしょう?杉田さんだって、お店のこと気にしていたし。
こんなにおいしそうで評判がいいんだもの。奥さん一人じゃ切り盛りするの大変だって思うし、あたしだったら入江くんが入院して長引いたらやっぱり嫌だなって思うし。奥さんが忙しくてさみしくていらいらしちゃうのもわかるけどなー。
それに、こんなに忙しそうなのに、今日もまたちゃんと病院に行ってあげるなんて、仲が悪かったらできないでしょう?
病院の食事より、奥さんの手作りのお弁当が食べたいって杉田さんだって思ってるかもよ」

一気にしゃべった琴子の言葉にさすがの桔梗も笑い出した。

「あんたが基準じゃ、夫婦仲の悪い人なんていなくなるわよね〜」

そんな桔梗と琴子の様子を横目で見ながら、杉田の妻はキリがいいとばかりに「ありがとうございました」といって奥へ引っ込んだのだった。

「ほら、帰るわよ」

桔梗に促されて、琴子は弁当屋を出て行くことにした。
本当は、奥さんが働いている様子を見たかっただけだったし、杉田が気にしているお店が、杉田がいないことによって何か不都合なことになっていたら、柳田先生を訴えるという話もまんざら冗談では済まされないなと言う気がしたのだ。
その辺は琴子の考えであって、実際訴えられる材料があるかどうかとは全く別のことだが。
琴子としては言いたいことを言ってしまったので、すっきりした気分だった。
桔梗はもう少し複雑で、琴子の言葉が更に杉田の妻を意固地にさせないかどうか気になっていた。
だいたい世の中琴子ほど単純にできているわけではないのだ…というのが桔梗の意見だが、なぜか琴子が言うと実際そんなものだったかもしれないと思えてくるから不思議だった。
そんなふうに桔梗が思っていることなど知らず、琴子は弁当ぶら下げながら上機嫌で帰り道を急ぐのだった。

そして、週明け、斗南大学病院では一つのニュースが病院中を揺るがすことになった。


To be continued.