斗南大学病院白い巨塔



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週明けの病院内、午後から教授とその取り巻きは非常に渋い顔で会議室へ向かっていた。
朝一番で告げられた言葉は、教授の頭の中でとりあえず忘れることにした。
その他の医師も朝から浮かない顔で仕事をしていたが、とある噂はお昼時をピークに声高にささやかれることになった。
いよいよ助教授選が始まるこの時になって、何故…と言うのが大半の意見だった。
しかも、お昼を過ぎたら助教授選のため、外科の幹部医師や他の教授人たちは会議室にこもることになる。
下っ端の医師や看護師たちはその噂に思いっきり興じることになった。

「入江直樹が教授直々の誘いを断り、助教授選から身を引いた」
「入江直樹が斗南大学病院を退職し、都内に開業するらしい」
「開業のため、優秀な医師と看護師の引き抜きを考えている」
「開業に付いて行きたい医師と看護師は山ほどいるが、近々面接を行うらしい」

偶然その日、琴子の仕事は休みだった。
看護師たちは琴子からの情報漏れを期待していたのだが、いないとなっては仕方がない。
仲の良い桔梗も質問攻めにされたが、桔梗自体詳しいことは何一つ聞いていないことが更に謎を呼んだ。
…当然のことながら、直樹に質問するものはいたが、あえなく撃沈するはめに。
看護師たちがいつも以上に壁の厚い直樹に近寄れるわけもなく、直樹を遠巻きにしながら噂話に花を咲かせる以外になかったのだ。

直樹はささやかれ続ける噂話には多少うんざりしていたが、昔から噂されるのは慣れているせいか、淡々と仕事をこなしていた。
やはり琴子が休みの日に告げて正解だった、というのが直樹の思惑だった。
本当は大学に残って研究し続けるのも悪くはない。実際まだまだ研究したいことは山のようにある。
しかし、自分が医者になったきっかけを考えれば、このまま助教授となり、教授となり、患者をただ研究対象として見ていくことは耐えられなかった。
もちろん大学病院にいれば難しい患者はどんどんやってきて、助けを必要とする患者の数も桁違いだろうが、離れるなら今しかない、というのが直樹の決断だった。
これ以上歳をとってからでは遅すぎる。
ただ安穏と時は過ぎ、恵まれた環境の中で治療を続けていくことに不安を覚えなくなってからでは、自分のやりたい医療がいずれ続けられなくなるに違いないという気持ちだった。
だからあえて、この恵まれた環境を捨て、開業という厳しい選択をするのだ。
教授にはそういったことを告げたつもりだった。
しかし、教授は一通り直樹の言葉を聞いた後でこうも言った。
経営に苦しんで、それこそ思うように医療ができなくなる医者も大勢いるのだ、と。
直樹もそれはもちろん危惧していた。
しかし、直樹にはどんなに病院経営が苦しくなっても切り抜けていける自信があった。
入江君には是非助教授になって大学を盛り上げて欲しかった、と教授は続けた。
もちろん今すぐにやめるわけではないが、少なくとも助教授になる資格はないと思っているので、あえて助教授選の前に告げたのだと直樹は言った。

この決断を聞いて、柳田はなるほどと思った。
大学にとっては入江氏の優秀な頭脳と腕は、何にも得がたいものだろう。
それを振り切っていくその決断は、せめて祝福して送り出していく価値がある、と。自分にはできない決断だ、とも思う。
きっと彼の妻はどんなときでも彼を応援し、支えになっていくのだろう。
…そういう人がいないのが、最大に違う点かもしれない、と柳田は苦笑した。

この話を後日に聞いて、船津は怒った。
入江〜、勝ち逃げするのか〜、と。
ここで楽に教授になれると考えればいいものを、直樹がいてこそ価値ある教授就任らしい。
それでもここで直樹を追いかけて、僕も開業と言わないだけ成長した…かもしれない。

そして助教授選は、この直樹の決断によって大荒れになった。
正直、どんな対抗馬が来ても入江直樹に勝てるものなどいないに等しかったのだ。
それが今更その入江直樹に助教授にならずに開業するなどと言われて、外科の将来は…などというところから始まり、助教授選とは全く関係ないところで話が盛り上がってしまった。
柳田を押していた一派は、訴えると言われた件についてじっと黙っていたが、当然その話題に触れないわけにもいかず、おそらく裁判になるまでもなく解決するだろうという見込みを進言するに留まった。
俄然張り切っているのは船津を押している一派だった。
船津がいかにまじめに研究に取り組んでいるか、手術の腕は入江直樹にも劣らず素晴らしく、入江直樹に代わってこの外科の将来を背負って立つだろうというような事を誇張した。

そして、ようやく一つの結論が出た。


(2005/09/03)

To be continued.