斗南大学病院白い巨塔




そう、ここに、船津の野望を遮るがごとく存在する人間がいる。
天才の誉れ高い入江直樹である。
入局してからというもの、その輝かしい手術歴は周りをあっと言わせるのにふさわしい。
本人は小児科を希望して、どちらかと言うと小児科の医局のほうが落ち着くようだが、外科が離局を承知しない。
もちろん外科にいようが小児科にいようが本人の誉れが変わることはなく、どちらの科からも引っ張りだこの存在である。
彼のお陰で斗南大学付属病院は小児外科の分野でも躍進したことは間違いない。
何度も長期留学の話は出たが、本人は短期留学を数こなすことで十分だと断っている。
その理由は誰も知らない。
実際短期留学だけでも留学先の教授陣をうならせるのに十分な知識を蓄えてくるので、これまた誰も強く意見できないのであった。
すでに医局の中では教授と互角かそれ以上の実力と噂されるくらいである。
ただひとつ困ったことは、彼女の奥さんは病院一のトラブルメーカーであった…。

そのトラブルメーカーの入江琴子は、今日も機嫌よく働いている。
あのスーパー医師・入江直樹と並んで斗南大学病院の有名人でもある。
医療ミスといわれるようなものは一切起こしていない。
起こしていないが、彼女の周りはトラブルに満ちている。
廊下を歩けば転ぶ。幸い患者を巻き添えにする前に同僚の巻き添えで終わる。
注射を失敗する。新人の頃よりはかなりましだが、いまだ自分に間違えて刺したりするようなドジをする。
物を落とす。何か音がしたら、琴子を探せ、とまで言われる。
それでいて、毎日元気に働いている。
いつもトラブルのとばっちりを直樹の次に受けているのが同僚の桔梗幹であった。

その同僚、桔梗幹は自称、心は女、間違って男の身体に生まれた人間である。
いい男には目がないが、運命の人だと思った男は、すでに他人の夫であった。
そんなことはともかく、琴子の同級生にして同僚の立場でもある幹は、一番の被害者であるといえるかもしれない。
しかし、看護師としては一番の理解者で、いい友人であるのも本当である。

そんなライバルや友人たちに囲まれ、船津は医師としてのキャリアを積んでいた。
本来なら、助教授になってもおかしくはないキャリアである。
普段の彼は冷静沈着、何事にもまじめに取り組む姿勢は教授陣の評価も高かった。
しかし、唯一彼の欠点が…。

「きょ、教授、僕の論文のどこが入江に劣るんです?」
「うん?いや、どこがというかね」
「いったい何が違うんです?」
「いやー、船津君は本当に優秀だと思うけどね」
「どこかおかしい箇所でもありましたか?」
「あ?いや、ない、ない。しいて言えば…」
「言えば…?」
「あー、そうだな、悪くはないんだが、入江君の方が見やすい、と言うか」
「論文ですよね?!見やすさのどこが必要なんですか?」
「いや、資料もよくまとまっていて一目でわかるし、つまり…」
「つまり?」
「船津君よりも入江君の方が良い論文だと決定したわけだな」

怒りに打ち震える船津の様子に気付かない教授は、更に余計な一言を添えた。

「まあ、船津君、なかなか入江君に勝てないのは残念だろうが、まあ、また精進してくれたまえ」

ぶちっ!と何かの音がした。

「くそ、どいつもこいつも、入江、入江、入江!」
「ふ、船津君?」
「どうして俺は入江に勝てないんだーーー!」
「いや、船津君、君は優秀だと思うよ、うん」

たじろぎながら後ずさる教授に向き直ると、完全に据わった目を向け、船津は叫ぶ。

「それでも入江のほうが、優秀だと思ってるんだー!」
「君は教授になりたいんだったね?ほ、ほら、そろそろ助教授選もあるから」
「ど、どうせ俺なんて、俺なんて!!」

うあ〜となにやらわけのわからない叫びをしながら、船津は走り去った。
たまたま通りかかった直樹に、教授は汗を拭きながら聞いた。

「船津君の『あれ』はどうにかならんのかね?」
「…なりませんね」
「一度負けてやったらどうだ、入江君」

眉を上げて教授を見ると、きっぱりと言った。

「そんなことをしたら、また、切れますよ」
「ははは、そうかね」

それに、そんなことのためにわざわざ負けるなんてバカバカしいこと、誰がするか。
教授の背中に向かってつぶやいた言葉は、幸いにも教授の耳には届いていなかった。
直樹は一つため息をつくと、そのままナースステーションへ入っていった。
ナースステーションではちょうど勤務が終わった看護師たちが、楽しげに何やら話しをしている。

「やっぱり入江先生よね」
「船津先生も気合が入ってるらしいけど」
「えー、だって、『あれ』じゃあねぇ」

先ほどの切れ具合をナースステーションの中から見ていた看護師たちは、うん、うん、とうなずきあう。

「琴子だって、入江先生が助教授になったほうがうれしいでしょう?」

珍しく休憩室の隅で手帳を見ながらぶつぶつとつぶやいていた琴子は、自分に話がふられたことに気づいていない様子だった。

「えーと、入江くんの今日の勤務が当直で、明日はあたしが夜勤で…」
「琴子ってば」

同僚の言葉に琴子ははっとして顔をあげる。

「な、何?」
「もう、だから、助教授選よ」
「へ?あ、ああ、助教授選ね。それが何か?」
「何って…入江先生が勝つわよねって話」
「そ、そうね…」

琴子の引きつった笑いに同僚は疑わしい目で見ながら、休憩室を出て行き…。

「入江先生!」

ナースステーションにいる直樹を見つけて華やいだ声を上げる。
それを聞きつけた琴子は急いで休憩室を出て行き、駆け寄っていく。

「入江く〜ん!」

駆け寄る琴子には目もくれないで、直樹はさっさとカルテを手にナースステーションを出ようとする。
ところが琴子はもちろん逃さない。
あと一歩と言うところで直樹は琴子に腕をつかまれた。

「入江くん、偶然ね!」

同じ病院の同じ外科にいながら偶然もくそもあるかと思う直樹だったが、半目で琴子を見て低くつぶやいた。

「お前、迎えに行かなくていいのか?」
「…あ、そうだった!!」

早く行かなくちゃとつぶやきながら、それでも直樹の腕を放さない。

「あさっての約束、忘れないでね!」
「…誰がお前と行くって言ったんだよ」
「もう、入江くんたら、妻が行かなくてどうするのよ」
「…その話はいいから、早く迎えに行って来い」
「うん。じゃあ、当直がんばってね!」

それだけ言うと、琴子は急いでナースステーションを出て行き、更衣室に向かって走り出した。
その騒々しい後姿を見ながら、病院内を走ると…と思ったが、深く考えないようにして病室へと向かった。
病室へ入る寸前に聞こえた悲鳴は絶対琴子だと思ったが、その後に続く琴子の元気な声に一安心して回診に向かう直樹だった。

「ご、ごめんなさい!!ちょっと、子どものお迎えに急いでたものだから…」
「…いいんです、僕なんて、僕なんて…」
「ふ、船津…くん」

いじけてすねまくった船津の耳には琴子の言葉などただ通り過ぎるだけである。

「えーと、そ、それじゃあ、あたし急いでるから…」
「助教授選はこれからなのに、何でもう入江に決まったみたいなことばかり〜」

がしっと、琴子の肩をつかむと眼鏡を光らせながら言い募る。

「選挙というのは、公平に決めるものじゃないんですか〜?」
「いや、だから、あたし、お迎えが…」
「入江は、裏工作でもしてるのか〜?」
「し、してないわよっ。
入江くんはそんなことしなくたって勝てるんだから!」
「それなら、助教授選は俺のものだー」
「だから、入江くんは助教授なんて…」

ハッとしたように琴子は口をつぐむ。

「ど、どうでもいいけど、お迎えが〜」

げしっと音がして船津は廊下に転がった。
やっと船津から開放された琴子が見たのは、無表情に船津と琴子を見つめる直樹だった。

「いつまでやってんだ」
「い、入江くん」
「…船津、かわいい子どものお迎え遅らせて楽しいか?」
「くっ、い、入江〜」
「琴子、お前もいつまでもちょろちょろしてないで、早く行け」
「う、うん」

琴子はこれ以上直樹の怒りに触れないように、一目散にその場を抜け出す。
子どものお迎えに行く約束だったのだ。
床にはいつくばっていた船津は、眼鏡の位置を直して、背中を押さえながら立ち上がった。
テンションはまた下がったのか、どんよりとした表情で船津はエレベータに乗り込んだ。
その白衣の背中には、くっきりと足形が残されていた。


To be continued.