斗南大学病院白い巨塔




船津は仕上げた論文をせっせと再印刷していた。
あの握りつぶした後、患者の急変でそれどころではなくなってしまったのだ。
おまけに処置がいろいろ続いて、緊急手術にもなったりして、翌日の真理奈との昼食を食堂で一緒に計画も実行されることはなかった。
何より教授から依頼された論文を提出しなければならなかった。
いざ印刷しようとしたらプリンターのインク切れ。
他のプリンターを借りてみれば、医局の電源が切れる(これは予定されていた点検のためらしかったが)。
やっとのことで印刷にまでこぎつけたのだ。
あとはこれを持って教授の部屋へ行けばいいだけだった。
しかし、油断してはいけない、ここはナースステーション。
医局が停電で仕方なく病棟のパソコンを使っていた船津だったが、いまひとつ用心さが足りなかったようだ。
もちろん船津と言えど、琴子がいる病棟で印刷するような不注意はしない。
そう、万が一…と言うこともある。
しかし、ナースステーションから教授室へは、何やら不吉なことが待ち受けていることを船津はまだ知らない。
ちなみに、午後のこの時間(おそらく15時頃)、教授は医局にはおらず(まあ、停電なので医局には余計に誰もいない)、研究室棟の専用の研究室にいることが多い。
教授は今船津がまとめたデータを今か今かと待ちわびている(…に違いない、多分)。
更なるデータの蓄積を求めて研究室で手軽に使える下っ端を口で動かしている(…に違いない、なんとなく)。
そう、論文をまとめるなら船津、と相場は決まっている。
それはそれで名誉なことだと思う。
そういうわけで、船津は論文を手に一刻も早く教授のもとへとたどり着かねばならなかった。
船津は早速論文を手にすると、封筒に大切に入れてナースステーションを出て行こうとした。

「あ、船津先生、先ほどの患者さんが、やはり便秘の薬が欲しいと…」

一人の看護師に呼び止められた。
船津は周りに使えそうな研修医はいないかと見回したが、誰もいなかったので仕方なく再びパソコンの前に座った。

「それではカルテを…。確か、山本さんでしたね」
「はい、これです」

船津は一つため息をついてパソコンの横に封筒を置くと、便秘薬処方のために一手間かけることになった。

「師長さん、私の書類知りませんか?」
「佐藤さんのなら…パソコンの上にありましたよ」
「パソコンの上…」

佐藤と呼ばれた看護師は、パソコンの上ににあった封筒を見つけると、中身を確認した後立ち去った。

「ふう、はい、出しましたよ」

あたかも船津の便秘が解消されたかのようだった。
船津は再び意気揚々と封筒を持ってナースステーションを立ち去った。
船津がエレベータに乗って1階まで下りると、先ほどの佐藤が慌てた様子で乗りこんできた。
入れ違いざまにぶつかって二人の手に持っていた書類が落ちて入れ替わる。
…お約束だ。

「すみません、船津先生」

しかし、そのまま何か急いでいたらしい佐藤は、慌てて封筒を拾い上げるとエレベータが閉まるのに任せて上へと戻っていく。
落ちたメガネを拾い上げてる隙に佐藤は行ってしまった。
船津はまさか封筒が入れ替わっているとは思わず、封筒を拾い上げると一つ二つ埃を払ってそのまま歩き出した。

外来棟へと続く廊下を通り抜けようとすると、愛する真里奈が患者をリハビリ室から連れ帰るところに行きあった。

「ま、り、な、さ〜〜〜ん」

手を振りながら大声で近づいてくる船津の様子に、隠れることも出来ず逃げるように足を早めた真理奈だったが、さすがに逃げ切ることは出来なかった。

「ふ、船津…先生…、忙しいんで失礼します」
「あ、真里奈さ〜ん、またご一緒しましょう!」

驚いて真理奈を見上げる車椅子の患者と、廊下を行きかうほかの患者たちの好奇の視線を浴びながら、一刻も早く立ち去りたい真理奈だった。
船津は機嫌よくそのまま歩き出した。

真里奈さんは恥ずかしがりやだ…。

そう思っているのは船津だけに違いない…。
そんなことはともかく、いよいよ研究室棟へと向かう裏道を行こうと扉を開けると、なぜかそこから出てきたのは琴子だった。

「うわっ、船津…くん」

なぜこんなところから琴子さんが…?

首を傾げたが、琴子は人が驚くようなことを平気でやってのけるので、あまり深く考えずに船津は道を譲った。

「ありがとう、船津くん。
こっちって、病棟に戻れるほうよね?」
「そうですよ。…また迷子ですか?」
「違うわよっ。違うけど…」

なぜか半泣きである。

「あ〜〜、もう、どこ行っちゃったのかしら、さっきの人〜〜」

そうわめきながら廊下を駆け抜けていった。
もちろんお約束どおり右手には封筒を持って。

相変わらず騒々しい人だ。

琴子を見送って、なんとか研究室へとたどり着いた船津だったが、中身を確かめなくていいのか?
後悔するぞ、船津!

船津は研究室の中の教授に声を掛け、自信満々に封筒を差し出そうとした。
しかし、ここで本能が働いたか、なんとなく先に自分で封筒から中身を取り出してみた。
もちろんお約束に中身は入れ替わっていた。
しかし、船津は知らなかったので、教授を前にして顔面蒼白である。
そう、船津が手にしているのは、なぜか、入江琴子と書かれた事故報告書
(それも滅多に扱わない膀胱洗浄用のガラスの注射器を壊したらしい)と
院内事故マニュアルと書かれた冊子だった。
それは船津の持っていたはずの論文と同じ大きさ、同じくらいの重さ、同じくらいの厚さだったため気付かなかったらしい。
教授は何気に覗き込んでみたが、船津の白く燃え尽きた様子を見ると、首を振った。
なんとなく、助教授への道は、もしかしたら遠のいた…かもしれない。


To be continued.