斗南大学病院白い巨塔




「その件につきましては、もう一度主治医のほうから説明していただきましょう」

病室に師長の声がきっぱりと響いた。
なおも不満げな女は、もう一度口を開いた。

「もう一度説明されても気持ちは変わりません。
私、斗南病院を訴えます!」

師長は心の中でため息をつきながら、静かに病室を出て行った。
女と師長に挟まれた格好の患者・杉田は冷や汗をたらしながらその光景を見守っていた。
女・杉田の妻は依然としてこわばった顔をして、師長の出て行ったドアを見つめている。
杉田はそんな妻にこわごわ声をかけた。

「いや、先生はよくやってくれたと思うよ。お前、そんな訴えるだなんてそんな恩知らずなことを…」
「あなたは黙ってて!
だいたい手術してまた悪化するなんて、手術が悪いに決まってるのよ。絶対医療ミスよ、これは!」

鼻息も荒い妻の勢いに、杉田はそれ以上何も言えず布団の中でため息をつくほかなかった。


ナースステーションに戻った師長は、杉田のカルテを見ながら頭を抱えた。
杉田の妻は何度説明しても聞く耳を持たない。
多分資料のどこを探しても医療ミスなどありえない。
手術中におけることは手術に付いた看護師しかわからないが、おそらく主治医である柳田医師の手術が失敗なんてこともありえない。
おそらく本当に訴えられたとしても負けることはないだろう。
ただ、裁判と言うのは格好の新聞記事にもなりやすく、それだけで病院の評判は落ちてしまうのだ。
たとえ病院側が勝ったとしても、世間はミスを隠したとしか見てくれなくなるのだ。
看護部長と院長にも耳に入れねばならないかもしれない。
それを思うと、またため息が出てくる。

胆のう摘出手術を受けた杉田は、手術後4日目にして術後の合併症の一つであるイレウス(腸閉塞)を発症したのだった。
もちろん今は回復に向かっているのだが、それを杉田の妻は医療ミスだと疑ってやまない。
術後に起こるさまざまな合併症についての説明は、当然手術前にも説明はされているはずで、患者本人の杉田自身はそれで納得しているのだ。
そう、杉田の妻だけが納得していないのである。
もちろん術後合併症もそれほど頻繁に起こるわけではないので、いきなり合併症を併発すれば驚くのも無理はない。
しかも確か杉田のところは、夫婦でやっている自営業だと聞いている。
杉田が休むことによって収入は減るだろうし、入院が長引いて余分な処置が加われば治療費もかさむのだろう。
合併症になったからといってその分の入院費が免除になるわけではないので、妻としては納得がいかないのかもしれない。
胆のう摘出自体は頻繁に行われるし、それこそ80歳という高齢でも受けることがあり、手術としては比較的簡単な部類に入るものである。
だからこそ、すぐに手術をしてすぐに退院するつもりでいたのだ。

はああああ。

師長は首を振りながら、カルテを置いて医師の柳田を探すことにした。


柳田は手術場を見学しながら、鮮やかな手つきの入江氏を見ていた。
ちょうど自分の手術が終わったところで、いつもより見学者の多い手術場に興味を持ってのぞいたら、入江氏だったわけだ。
今日の手術予定に入江氏の名はなかったので、おそらく緊急手術らしい。
見学しているポリクリ(病院実習中の医学生)の話によると、腸重積の2歳の子らしい。
どうりで患者がよく見えないはずだ。
しかし、その手元はモニターによって見ることができ、見学している全ての人の賞賛を受けていた。
手際がよく、もうまもなく手術も終わるだろう。
柳田は最後まで見ずに更衣室へと向かった。
更衣室で着替えを済ませ、出て行こうとしたとき、ちょうど手術後の入江氏と行きあった。
何とはなしに声をかけた。

「お疲れ様です」
「いえ、そちらこそ」
「手術、拝見させていただきました。入江先生、さすがですね」
「…柳田先生こそ朝からずっと肝臓がんの患者にかかりきりでしたよね」
「ええ、まあ。本人がどうしても手術を希望したもので…。
転移箇所を郭清(切り取ること)していたら時間がかかってしまって」
「いけそうですか?」
「…しばらくは…。どれくらいもつか予想はできませんけどね」
「そうですか」

ピーピーピー。

柳田のポケベルが鳴り響いた。

「あっと。それでは」

柳田は更衣室を出ると、急ぎ足で病棟に戻った。
なにやら、悪い予感がする。
そんな何とも言えない気分のまま病室に足を踏み入れた。
まさか、師長からあんな話を聞かされる羽目になるとは。

「イレウスを合併した杉田さんの奥様が、その…柳田先生と病院を医療ミスで訴える、とおっしゃっています」

言いにくそうに、それでもきっぱりと師長は切り出した。
さすがの柳田も絶句するほかなかった。
いったいどんなミスで訴えられるというのだろう。
柳田は杉田の顔を思い浮かべながらいろいろと思案した。

「もちろん私は先生にミスはなかったと説明しました。
なんでしたらカルテを開示してもよいとさえ思っています。
イレウスを発症する経緯、発見と治療までの一般的な処置についても説明して、柳田先生及び看護師の手際に問題はなかったと自負しております。
もう一度主治医のほうからも説明をしましょうとその場を切り上げましたが、今は冷静にお話できるような状態ではないと思います。
いかがなされますか、先生」
「…仕方がありません。もう一度説明するほかはありませんね」
「それでは、担当看護師と医局長も同席させましょう」
「では、医局長のほうに連絡を…」
「いえ、それは私が行いましょう。柳田先生は何か説明に必要な書類や資料でも用意していただけますか」
「わかりました。お手数かけて申し訳ありませんが、お願いいたします」
「とんでもないです。私の説明で説得しきれなくて、かえって申し訳ないことに…」

柳田は他の用事を全てすっ飛ばして、患者の杉田(正確には妻のほう)を納得させるべく資料を探し始めた。
師長は早速医局長と連絡を取っている。
イレウスを発症したのは運が悪かっただけだと思っている。
しかし、もし何か重大なことを見落としていたら?
実は手術前にもイレウスが起こりそうな何か些細な兆候があったのでは?
そう思うと、柳田は手術前の検査結果に目を通し、レントゲンの隅々まで目を凝らすほかなかった。


To be continued.