看護師になって10年以上になろうとしています。
少なくとも今の受験制度から10年以上前であることをご承知の上でお読みください。
看護師になろうと思ったきっかけは些細なことでした。
祖母が戦時中に看護婦をしていました。そして俗なんですが、食いっぱぐれがないと言われたことでしょうか。
今になって、この不況時に手に職があってよかったとしみじみ思いました。
あとは、人間の身体の構造に興味があったことでしょうか。
これについては後ほど書いてみたいと思います。
さて、私は普通の進学校を卒業して看護学校を受験しました。
3年制のレギュラーコースです。今はほとんどの学校が短大から4大へ、専門学校から大学へと移行しつつあるようです。
私が入学した学校は県内外から受験者が集まるような学校でした。正直受験票が来るまで知らなかったのです。
私の受験番号は800番台でした。募集人数50人に対して受験者は1000人強…。通りで担任は渋い顔をしたわけです。
私はさほど成績がいいわけでもありませんでした。せいぜい進学クラスの中で真ん中程度。看護大学を受けるにはちょっと厳しいという感じでした。まあ、看護大学の授業料を考えたらがんばって進学する気にはなれなかったのですが。
1次試験は国語、数学、英語、生物か化学、そして小論文でした。社会科の苦手な私にはなくてラッキー。
1000人ほどいた受験者が2次試験までに300人ほどに絞られます。
2次試験は面接。学校によってはガウンをたたませるところもあったようです。いったい何を見ていたのかは不明ですが…。
まあ、何にしても受かってよかったです。
(2004.9.20)
看護学校には寮生活が結構つき物らしいです。私も例に漏れず寮に入りました。と言うより、寮があるからこそ、その学校を選んだと言っても過言ではありません。
他の学校と違って、その学校は一人部屋だったのです。他の学年と共同部屋になりがちな寮生活なんですが、そんな風に気を使うこともなくかなり生活は楽でした。
実家から通えないことはなかったんですが、通学1時間半は実習が始まると結構きついんです。なので、両親の心配をよそに、あっさりと寮生活を決めました。え、そりゃあもうホームシックも全くありませんでした。
詳しい話は順にしていきたいと思いますが、お風呂の順番でもめることも、洗濯機の順番でもめることもありませんでした。
先輩を立ててお風呂の順番待ちなんぞもありません。何せ先輩のほうが実習から帰ってくるのが遅いんです。一番風呂はたいてい1年生のものです。
お風呂の前に洗濯機もついでに回しておきます。
先輩がそんなことで怒ると言う話も聞いたことがありません。
もちろんこれは先輩をなめているとかいうのではなく、一年生が早く入ってしまったほうが、実習から疲れて帰ってきた先輩たちの邪魔にもならないからです。
全体的に先輩は優しかったですね。
他の学校での3人部屋だの風呂の順番待ちだのの話を聞くたびにあまりの違いに驚いたものです。
なので、私たちが先輩と言う立場になっても後輩をかわいがることができましたし、この学校でよかったと思いました。
皆さんの知っている寮はどんな感じでしょうか?
(2004.9.20)
一人部屋で楽な生活にも一つだけ苦労したことがあります。基本的に寮には食堂がないので、自炊生活でした。
ちなみに食堂で食べたい場合は、徒歩1分の病院まで行き、更に最上階の職員食堂へ行かなければなりませんでした。
共同の炊事場(これも学年別)があり、そこで寮生は各自自炊していました。
私は料理だけは普通にできましたので(何せ母親が微妙に不器用で放任主義)、作ること自体は苦ではありませんでした。
…が、自炊する以上食料を買いに行かなくてはなりませんし、
実習で疲れて帰ってくると作るのもいやになります。
それでも、仲の良い子やたまたま一緒になった寮生とおかずを分け合ったり、調味料を貸し借りしたり、和気あいあいと作ることが多かったです。
ちなみに冷蔵庫は共同のものもありましたが、物がなくなるというトラブルも多くて冷蔵庫も小型のものを部屋に置いていました。
更にトースターや炊飯器、人によっては電子レンジやポットなど、電化製品をいろいろ置いた結果、よくブレーカーが落ちて管理人のおばちゃんを怒らせていました。
電気のブレーカーは隣室と一緒なので、電子レンジやドライヤーを使うときは声をかけ合ってブレーカーが落ちないようにしていました。
月末に電気料金表が張り出されると、いやに盛り上がったことが思い出されます。
(2004/09/25)
私が寮生だった頃は、携帯電話なぞ普及していませんでした。
せいぜいポケットベルがあったかも?程度でしょうか?それすらも今は見かけませんよね。
当時の寮での連絡手段は、各階に取り付けられた公衆電話でした。しかも、1台。
更に言えば、消灯22時以降は使えません。
でも、彼氏もちは電話したい。
ええ、でも、使えません(いや、私には関係なかったんですがね)。
電話がかかってくると、誰かが取らねばなりません。
運よく誰かががいればいいのですが、いなければ無視されます。
電話はたいてい通りがかった寮生か、電話の近くの部屋の寮生が取ります。
取った以上呼ばねばなりません。
東西に長い寮の東棟の端まで行くのは結構大変です。
さらに、1台しかないのでかなりの争奪戦になります。
そして、そんな合間をぬってかかってくる変態電話もあります。
22時以降にかかってきた電話でも、声を潜めて管理人に見つからなければ大丈夫なのですが、もしも見回りの時間にでも見つかったら最後…。思いっきり電話を切られます。
看護師用の寮に移ったときにうれしかったのは、各部屋に取り付けられた電話だったのは言うまでもありません。
今は携帯電話の普及により考えられない懐かしい話です。
(2004/09/25)
寮には管理人がいるものです。
しかも女子寮ですので、それはもう、ものすごい管理人がおりました。
基本的には悪い人ではないと思うのですが、そのパワーたるや恐れ多いものがありました。
夫婦の管理人でしたが、おっちゃんおばちゃんともに口うるさく、毎夜のおばちゃんの見回りには見つからないようにするのが大変でした。
電話のところでも書いたように、消灯は22時でした。
起きていてもかまいませんが、他の部屋で騒ぐのは厳禁です。部屋の扉を凄い勢いでドンドンドン!とたたかれます。
そこで素直に部屋を開けないと怒鳴られます。
更に22時以降に電話をしているのが見つかれば、電話相手に向かっても怒鳴ります。
毎夜、管理人の見回り時にはシーンと静まり返っておりました。
そんな管理人でしたが、名前を覚えるのが苦手らしく(と言うより、自分は間違っているとは思っていなかったようで…)
私を含め、数人は卒業までずっと違う名前で呼ばれ続けておりました。
いや、いいんですけどね、覚えていただかないほうが…。ただ、違う名前で呼ばれてるのに振り向かないと怒られるのだけが困り物でした。
(2004/09/25)
寮での門限は21時半でした。
これは、病院行きのバスの最終到着時刻が21時25分くらいだからです。
もし、その時間以降に帰るときは当然どこか窓から入らねばなりません。
その場所に選ばれていたのは、共同炊事場です。一番目立たなくて見回り時にも鍵が開いていてもわかりにくい場所です。
ただ、真夜中の最終見回りが済んでからでないと、やはり危険です。
あらかじめ仲のいい寮生に開けておいてもらいます。もちろんその寮生も管理人室の横をそっと通り過ぎ、見つかる可能性を考慮しながら開けに行くわけです。
その見返りは、どこかで買ってきたケーキだったり、次回の自分の門限破りだったりします。
さすがに見つかった人はいませんでしたが、やはり気づかれていたのか、寮を出る頃には出入りしやすい窓の鍵がほとんど針金で閉められていたのでした。
その後の寮生の苦労を考えると、涙が出ます。
当然出入りできるのは、先輩のいる看護師棟か2階のベランダとなってしまいました。
2階のベランダは、さすがに登りにくい。
と言うか、傍から見たら思いっきり不審者です。病院の敷地内でもある寮は、場所によっては病院側から丸見えです。
しかも、お出かけですから、2階によじ登れるような服装ではありませんし。
それをチャレンジしていた1年生、あんたたちは凄いよ…。
(2004/09/25)
教室の中で寮生と通学生の違いは一目瞭然です。
学校と寮が隣り合わせにあり、通学徒歩30秒という環境の中で、通学生のようにおしゃれに気合の入っている人はいません。皆ラフな服装で始業の鐘がなるぎりぎりに走りこむのです。
昼ともなれば、寮生はさっさと寮に戻って自室で昼食を食べ、
重い教科書は午前と午後で分けて持っていくことができるのです。
更に寮生は、布団や洗濯物を干していて急に雨が降りだすと、必死に寮に戻って取り込みます。授業中でも「洗濯取り込んできます!」と宣言して、かまわず出て行っていました。
時には、先生が教えてくれることすらありました。
非常識ではありましたが、自分の安眠を守るためですから、結構必死でした。
そして、放課後、寮生はどこへも出かける気がないとすぐにパジャマに着替えます。ラフな服から更にラフなパジャマに着替えるわけです。
冬はそれに半てんを着こんでうろうろしていました。何せ冬の廊下はかなり寒いのです。
たまに通学生が寮に寄ってその姿を見ると、目を丸くしていました。
見かける寮生がまだ日の落ちないうちからパジャマ姿でうろうろですから、ちょっと異様だったかもしれません。
最初は抵抗を感じていたらしい1年生も、半年もするとパジャマでうろうろするようになります。
今でもパジャマと半てんでうろうろしてるのでしょうか、気になります。
(2004/09/25)
女子寮という以上、痴漢もかなり出没しました。
日当たりを求めて干した実習服や下着は盗まれる。
なぜか廊下を女装して歩いてる。
当然風呂場に入ってくる。風呂場の外をうろつかれる。
トイレに隠れようとする。
変態電話も多い。
それらを撃退するのに管理人のおっちゃんは苦労していました。
私が見た痴漢は、脱衣所で下着をあさっていたやつと女装癖のあるやつでした。
脱衣所にいるほうはまだなんとなくわかります。女装癖のほうは…。
服装を説明しますと、緑のシャツに白のテニススコート、パンツは黒のビキニ(見たくなかったが、スカートがひるがえって見えたんです…)、口紅だけ塗っておりました。
本物の変態です。
警察に話す私のほうが恥ずかしかったです…。
変態電話は、病気の相談という形で始まることが多かったです
(いや、もちろん同じやつなんでしょうが)。
もちろんまじめに付き合うほど暇ではないので、かなりきつい言葉を浴びせかけて切るのですが、それがうれしいらしくてかなりうっとおしかったです。
いずれの変態も捕まることはなかったので、今でもうろついているかもしれません。
(2004/09/25)
1年生の夏休みの真っ最中にキャンプに行きました。某休暇村での二泊三日です。
ロッジに泊まりましたので、当然自炊です。
おなべでご飯炊いたりと大変で、寮生は手際がいいものの、うんざりしていたように思います。
そして、もう一つ憂鬱だったのが、学校から貸し出された色気のない黒の雨合羽とつばの広い麦わら帽子でした。
これがまた恐ろしく年季の入ったもので、毎年学生が代々使用していたらしく、休暇村の職員にまで有名でした。
何せ、学校名を告げると「ああ、あの合羽の…」って、そんなに印象深いんですか?!
うら若き乙女たちの集団のおっちゃん仕様の黒の雨合羽と、つばの広いおばちゃん仕様の麦わら帽子が、似合っていたのか、似合っていないのか…。
あのクスクス笑いから察するに、前者、なんでしょうね…。
さて、天気は一日目から雨。
しかも、夜には小雨の降る中肝試し。
もちろん黒の雨合羽着用。
そして、私はお化け係…。
他の学校との合流地点でひたすら相棒と隠れ待っていた私たちは、なぜかなかなか来ないうちの学校の連中に痺れを切らして、他の学校の生徒まで脅かしておりました。
かなり驚いてもらえて満足しました。
いや、ちゃんと謝ったんですけどね。
それなのに、やっと来たうちの学校の連中ときたら、反応が鈍い。
同じように驚かしているにもかかわらず、キャ−と言ったのは2人だけ。
つくづくうちの学校の連中の図太さを知った日でした。
(2004/09/25)
キャンプ2日目はオリエンテーリングでした。
天気はまあまあ。
ポイントを探して野山を駆け巡りました。
入賞商品はスイカやフルーツの缶詰などのデザート類でした。
これで気合が入ったのは、なぜか寮生でした。
親に仕送りをしてもらっている手前、どうしても食費をケチってしまうせいなのか、デザートにお金かけることは少ないせいだったからかもしれません。
夜は当然キャンプファイアー。
キャンプファイアーの出し物には苦労しました。
何せ、夏休みといえば皆親元へ帰っているので、練習は夏休み前しかできません。
寮生だけならば寮の中で練習できますが、もちろん通学生も含まれていますので、練習する時間などほとんどありませんでした。
仕方がないのでキャンプ一日目に練習する羽目になり、ランプの明かりの下で出し物を練習しておりました。
「もうそろそろ寝たほうが…あ…」
キャンプのアドバイザーが見回りに来てドアが開いた瞬間、思わず皆動きを止めて固まりました。
それぞれが妙なポーズのままだるまさんが転んだ状態でしたので、アドバイザーが驚いたのも無理はありません。
「あー、驚いた。集団金縛りにあったのかと思ったよ〜。じゃあ、がんばってね〜」
そう朗らかに笑って帰っていたアドバイザーの顔が引きつっていたのは、多分気のせいではなかったでしょう。
キャンプファイアーでその妙な踊りを披露した後、アドバイザーの一言が
「なんだかよくわからなかったけど、面白かったわ」
というものでした。
それは、本心ですか…??
(2004/09/25)