看護学生な思い出3

21.大学祭

11月になると、一学部しかない医大にも大学祭はあります。 ただし、一学部しかないので、規模は無茶苦茶小さいです。しかも、お客が特殊です(笑)。

我らの学校も一応出展します。2年生以上は実習でそれどころではない時期なので、参加するのは1年生だけです。
クッキーやケーキなどのお菓子類、クッションや袋物などの手芸品の販売と健康チェックコーナーです。
前日から開催3日間は、夜遅くまでかかってお菓子類を仕込みます。
このときばかりはさすがに消灯も何もあったものではありません。しかし、一応クッキーなどの味見と称して管理人夫妻に差し入れしてご機嫌を取っておくのも忘れません。
そうして用意したものを並べていよいよ開催。
規模は小さいながら大学塔のある通りは各クラブが出した屋台が並びます。
一応外部の人も来るには来るのですが、その半分はなんと患者さん。更に病院職員。そして外来患者さん。
つまり、パジャマや白衣などの方々がさも当たり前のように練り歩いているのが医大祭です。
ちなみに、病棟配達もかなり多く見られます。
「注文ないですか〜」と一人病棟を回ってくると、全く関係のない店の注文まで引き受ける羽目になっていた学生もおりました。
そして、医大祭の出展物は、正直結構高い。しかも、食べ物しかない(笑)。
どれくらい高いかと言うと…みたらし団子が1本100円するくらい高いです(爆)。実際は3本300円とかなんですが(一緒か…)。
他には舞台ものとして、武道系クラブの演武会、コンサート、ミス・ミスターコンテスト、カルトクイズなんかも普通にありました。
一応そのあたりは規模は小さいもののやることは一緒です。
そして、毎年アルコール中毒でぶっ倒れるやつ、暴れるやつが出ます。正直、医大にあるまじき狂態です。いや、何学部だから許されると言うわけではないんですが。
普段抑圧されているせいなのか、その辺の大学祭より夜遅くまでどんちゃん騒ぎをしているのが特徴です。
皆、将来お医者様になるんですよ〜。
怖いですね〜。

(2004/10/18)

22.病院以外での実習

付属病院以外でも実習はあります。
老人ホーム、保健所、幼稚園、養護施設、乳児院、障害者施設などです。
そこに移動するのも当然学生の自己責任です。
一番遠い障害者施設へ行くときは、タクシーをチャーターしました。5人ほどで乗り込むので、当然割り勘でほどほどの値段。
保健所へは電車。
幼稚園へはスクールバスの途中下車と徒歩(スクールバスは、駅までの道のりで何箇所かバス停があります)。
乳児院と老人ホームはさすがにクラス全員でスクールバス。
余談ですが、このスクールバス結構便利で、国家試験のときに全員を試験場まで送ってくれたりしました。
保健所実習は、保健婦さんに付いて保健所内での健診のお手伝いだとか、介護家庭の見回りに付いて行ったりました。介護家庭の見回りは、人によって自転車だったり、車で一緒に乗せてもらったりしました。ちなみに私は車だったのでラッキーでした。
そして、実習の服装も保健所では決まっていて、白のブラウスに黒のスカートでした。お互いスカートを貸し借りしたりしていました。
幼稚園実習は、なぜか私には男児しか寄ってこず、背中にヒーローキックを何回受けたことか…。私には年の離れた弟がいましたので、案外その影響かもしれません。

何にしても、一つ実習が終わるたびに打ち上げだーと称しては 飲みに行ったりカラオケに行ったりしていましたが、病院以外の実習は気分転換になってよかったと思います。

(2004/10/20)

23.卒業試験

1月頃に卒業試験が始まります。
それより前から卒業論文の執筆も始まっているのですが、卒業試験前においてはそんなもの考える余裕はありません。

前に科目のところで少し触れましたが、卒業試験の科目は実に60科目くらいありました。
なので、試験はほぼ1週間にわたってみっちり行われます。
もちろんその一つ一つは少ないものもあります。
内科学は、たとえば、腎臓とアレルギー学が一つの試験にセットになっていたりします。これは教えている先生が同じだったりする場合です。
でも、科目としては別、なわけです。
最初に習った看護総論もあり、看護技術学ですら実技以外にもテストがあるのです。
ものによっては口答なんかもあります。
特に解剖学の口答は厳しかったです。何をやっても関節の名前や骨の名前、神経の名前を考えずにはいられなくなります。
朝起きて、腕がしびれていようものなら、これはどこぞの神経と血管が圧迫されたことによる…などと考えるわけです。
もちろん生理学も同じです。お腹が空けば、お腹が空いたときに出る胃液が…などと考え、どの学生も独り言のようにぶつぶつと勉学にいそしみます。
それでも、一日に10教科近くを詰め込むのは無理です(いや、それまでに覚えていればいいんでしょうが)。
先輩から毎年同じだというテスト問題を手に入れて丸暗記したり、毎年予想もつかないような教科は捨てにかかったりします。
そうして苦労した集大成はもちろん国家試験につながるわけですが、とりあえずはこの苦しみが今終わりさえすればいい!と思っていました。
中には合格者一人というテストまでありましたが、追試で何とか合格させてもらったりしていました。

私の試験の成績は、ぎりぎり通過、といった感じでした。
なにせ、追試は13教科までというラインを12教科まで落としましたので…。
はい、成績はそれほどよくありませんでした。どちらかと言うと、看護師になってからのほうがよく勉強していると思います。
やはり実践で使うとなると覚え方も身の入り方も違うのでしょう。

(2004/10/10)

24.就職

いよいよ卒業して就職の話です。
付属の看護学校に行っている以上就職先は付属病院です。

実は、皆奨学金を受けていましたので、そこに就職しない限りは全額耳をそろえて返さなくてはなりませんでした。
月額3万円で、2年付属病院で働けばチャラになります。
昔はこれを御礼奉公と言ってあまりいい制度ではなかったんですが、正直貧乏人な私にはとても助かりました。
最初は1万5千円だったのが、2年生あたりでなぜか増額してましたね。…理由は覚えておりません。
それで、有無を言わさず(いらないと言っていた子も全員)奨学金を受けることになり、3年間で108万円。
途中で増額になった分もきっちり後から振り込まれる形になり (このあたりは確かバブリーな時代だったかと…)、九州あたりから来た子は卒業して実家のほうに帰るために全額貯金して返金していたはずです。
私は途中でいろいろ徴集される教科書代などに使っていました。
他には、保健師、助産師の資格をとるために更に上の学校に行く子もいましたが、その場合は更に奨学金を受けることも出来ましたし、資格を取った後に返金して保健師になったりする子もおりました。

まあ、そんなわけで2年間は意地でも働くぞーを合言葉にいざ就職です。
就職活動がないというのは非常に楽です。
そして、就職先を決める権利もあったのです。それも、内科、外科といった大まかなものではなく、○病棟といった病棟自体の指定です。
どこの病棟に就職するのかは非常に重要です。
苦手な病棟に行って自分を鍛えるのか、得意な病棟に行って得意分野を極めるのか、それぞれ水面下で駆け引きが行われます。
前にも書きましたが、何かを決定するにはなかなか時間がかかります。
まずは行きたい病棟に希望を取れば、重なったところはかなり悲惨。で、どうするかと言うと、じゃんけん、あみだ、くじ引き…なのです。
就職先をじゃんけんだのあみだだので決めるうちの学校って一体…。
教室のあちこちで響くじゃんけんの掛け声もたくましく、じゃんけんに自信がないグループはあみだで静かにこそこそと…何とか決まるのです。
ちなみに途中でどんなにもめても、先生たちは口を出すことはありません。
これがいわば就職活動らしきものかもしれません。

(2004/10/18)

25.試験監督

2月、当時看護学校では来年度の入学試験がありました。
一次試験(学力と小論文)、翌日に一次試験通過者発表。その更に翌日に二次試験(面接)。最終合格者は更に5日後あたりに発表という感じです。
まあ、何せ体育館いっぱいに受験者が来るような学校でしたので、生徒が登校してきてはかなりまずい状況です。
そして、その試験監督も看護学校の先生方、大学の事務関係の人だけではさばききれません。
そこで、生徒のアルバイトです。1年だったか2年だったか忘れましたが。
まず会場準備から始まります。
前日に机とイスを各方面から全てかき集めて運び、体育館にシートを貼り、その上に印をつけて並べていきます。
机に番号札の貼付。案内札の掲示。
やることは盛りだくさんです。
当日は案内係に試験監督係、救護係などに分かれて待機です。
私は試験監督係になりました。
試験用紙を配り、試験中に不正がないか見回り、また用紙を集める。それだけなんですが、午前午後と続くと結構疲れます。
バカに広い体育館で区分けされた分を見て回るのですが、明らかに他と違う答えを書いている生徒を見かけると凄く気になりました(笑)。
個人の試験の内容など見る暇はありませんが、国語なんかだと同じように解答用紙が並んでいるので、目立つんですね。
冬なので当然体調を崩している受験生が途中で倒れたり、この後に及んで筆記用具を忘れるというつわものもいたり。ちなみにこの場合は売店の場所を教えてあげました。
場所は体育館でしたから、結構寒い。
あちこちにヒーターやストーブなんかも設置していましたが、それでも膝にコートをかけている受験生が多かったです。
このうち誰が受かるのかなーなどと思いながら、ありがたく微々たるアルバイト料をいただいて帰りましたとさ。

(2005/03/19)

26.手術室実習

手術室実習も解剖室での講義に並んで結構グロイものです。
私はお腹を切って腸だの何だのを見るのは平気なのですが、実は細かいところの手術を見るのは苦手です。たとえば、目だとか、首だとか、腕だとかなどです。
お腹などになるとあまりにも血が多すぎて、実感がわかないのですが、細かいところの手術はその痛さや器官のリアルさに首筋が寒くなります。いや、倒れたりすることはないんですが。
手術室で看護師はいったい何をやっているか?
よくドラマである「汗!」「クーパー!」なんてことももちろんありますが、器械を渡すのは直接介助の看護師の役目、汗を拭くのは間接介助の役目でしょうね。
その他大勢の間接介助は、周りで次々に下に捨てられるガーゼを拾い集め、重さを量って出血量を記録したり、尿量を見たり、手術に合わせて大型の機械の準備に追われます。
教授が執刀医になろうものなら、手術する部分も全て消毒を済ませてから教授が呼ばれます。
教授は重要な手術部分を済ませたら、速やかに立ち去っていきます。最初から最後まで手術室にいることはまれです。
教授が執刀医だからといってもこんなものです。
あと、ドラマで外科の病棟看護師が手術に付いたりしていますが、大学病院などの総合病院では、手術室担当の看護師以外が付くことはまずありません。
だって、病棟が手薄になっては普通困るでしょう。

さて、実習にいった学生がやれることと言ったら、最後の最後で糸と針を渡すこと、周りでうろちょろしながら間接介助に努めることです。
実習中一度は必ず直接介助になるのですから、前日までに必死で糸の通し方、切り方、渡し方を練習します。
手術当日は手術始まりから例のドラマにあるような入念な手洗いをして、手を上向きにしたまま手術室に入り、手袋をはめて防御衣を着せてもらい待っています。
最後の最後までずーっと手を汚さないように器械が広げてある台の上で時々手を休ませてもらったりしながら出番待ちです。
待ちに待った本番、…緊張してなかなか針に糸が引っかからない。
針を持つための持針器という道具に針をしっかりはさむところからすでに手間取る。
針はまっすぐではありませんから(どちらかと言うと釣り針に近いかも)、角度も大事です。
あ、ちなみに針の頭に切込みが入っていて糸を通すのに目を凝らす必要はありません、念のため。
手術室の看護師さんは、一応穏やかな医師を選んで介助につかせてくれてますが、もたもたしていれば「は、や、く〜」などと催促されてドッといらない汗をかきます。
やっとのことでセットした持針器をパシッと子気味のよい音を立てて渡し終えたときには、すでにその日の体力を使いきった感じでした。
手術の終わった医師が一言「渡し方だけ花丸ね」と言われました。
おまけに背が低くて、一番高い足台を使ったのもつらかったです(私は高所恐怖症です)。
それに手術室の明かりは暑いです。
それもこれも、手術野が見えなければ意味ないですから。
…手術室に就職するのはやめよう…と思った瞬間でした。
更に別の手術では、周りでうろちょろしていた私に突然医師が「あ〜、そこの学生さん、これいいって言うまで持っててくれるかな〜」と持たされたものは、脂肪や組織を避けて手術野を見やすくするための『鉤(こう)』と呼ばれるものでした。
つまり、私は医師のそばに立ったまま手術の終わりまで、手術をされている患者さんのお腹の中の脂肪をよけるための手伝いをしていたわけです。
自分が持っている道具の先は、患者さんの脂肪か組織か…。
背の低い私は手術野も見えないまま1時間(普通もっと長い場合が多いのですが、学生が付くくらいですからさほど難しくない手術だったと思われます)、ボーっと鉤引きをしていました。
皆さん、お腹の脂肪は少なめに。…私も人のこと言えないが。
(2005.04.11)

27.ミーハー列伝

ミーハー心というものは、突然沸き起こります。
それまでなんとも思っていなかったものに、急に執着したりします。
それは私の場合、主に食べ物だったりするわけですが、珍しく人に執着した時期がありました。

看護学校に入る直前の年、地元プロ野球チームが優勝した年でもありました。え?年がばれる?まあ、スルーしてください…。
地元民な私はその野球チームのファンでありまして、熱烈とは言えないまでも応援しております。
そして、そんな私が入学した学校の付属病院は、なんとそのチームの選手がリハビリに治療に来ていたのでした。
今は亡くなってしまいましたが、リハビリ室に腕のいい理学療法士さんがいらっしゃったからだそうです。
もちろんそれを知ったのは実習が始まってからのことであり、わざわざそれを目当てに入学したわけではありません。
ちなみに今現在(2005年)は、リハビリ施設もそのチーム専用のいい施設ができたし、理学療法士さんも亡くなっているため、わざわざそのチームの選手が来ることはありません。

いざリハビリの実習が始まってみると、シーズン中から怪我をした選手が入れ替わり通ってきているではありませんか。
もちろん実習中教えていただいたのは、その理学療法士さんでしたので、その方がリハビリを指導しているのを見学するわけです。
おー、○○選手だー!
野球を知らなかったらしいほかのグループのメンバーは、私が何をそんなに興奮しているのかわからなかったに違いありません。
そう言えば膝を怪我したとか言っていたなーなどとリハビリの見学です。
ほかの患者さんが終わってからになりますので(さすがにパニックになるため)、周りは看護学生しかいなかったりします。
選手だって、可愛いかはともかく若い学生に囲まれれば悪い気はしません(両手に花だなーと喜んでいた)。
まさか実習中にサインを求めるようなバカなことはいたしませんでしたが、話しかけられようものなら舞い上がって何を答えたものやら。

更にリハビリの授業中、なぜか突然教室にやってきた選手2名。優勝に貢献した投手方ですよ、それも。
顔を出した瞬間、教室には「キャー!!」という大悲鳴が響きわたったのは言うまでもありません。
選手いわく、リハビリの途中で先生に「授業に行く」と置いていかれたので、看護学校なら一度のぞいてみたいという選手が内緒で訪れたらしいです。
卒業アルバム係の担当の一人だったので、当然記念写真を撮らせていただき、卒業アルバムに載せたのは言うまでもありません。
このときほど、この学校でよかったと思った瞬間はないのではないでしょうか(笑)。

その後も就職してから、某投手が入院しているという特別病棟まで食堂に行きがてらのぞいてみたり(職員食堂の隣に特別病棟があります)、プールに横綱力士がいると聞いては(夏場所の最中でした)泳ぎに行ったりしたものです。
そして、その某投手の奥さん、選手がリハビリしていた体育館で指導していたらしいです。
実は高校時代からファンだったのに〜。
出会いはどこに落ちているかわかったものではありません。
こんなミーハーな私ですが、まだ常識の範囲内ですよね?

(2005/06/25)

28.産科実習

産婦人科実習は婦人科と合わせて8週間くらい(…確かそれくらい。記憶はあいまい)ありました。
そのうち産科だけで6週間。
少子化といわれる昨今、大学病院はその余波をまともにくらっておりました。最近の個人病院志向に加え、総合病院ではやはり異常出産が多いのです。
正常出産の受け持ちなど、正直取り合いです。
実習期間が長くて、そのうち2グループ3グループ重なるので、受け持ちもシェアしないといけなくなります。
看護師、助産師さんにとっては邪魔だったことでしょう。
何より産む方は、出産のときにずらりと実習生が並ぶのも嫌だったことでしょう(一応事前に了解は取ります)。

正常出産の妊婦さんというのは、陣痛が起きないと病院には来ません。
昼間に陣痛で入院される方は少ないです。割と夜中に陣痛が出る方が多いんですね。
運よく初産であれば、実習生が実習に来る時間帯に分娩になります。
経産婦さんは出産の進み具合が早く、病院に来るとすぐに済んでしまう方が多いので、実習生が付く暇もないときがあります。
たまたま外人の方がみえました。
出産まで非常にダイナミックでした。いや、日本人がおとなしいかと言うとそういうわけでもないんですが、病棟中に響くような大声を出される方は少なかったように思います。
特にアメリカなどのほうでは無痛分娩も多く、日本のように自然に任せる出産はどうやらその方にとっては不満だった様です。
浣腸は嫌…という事でなかなかさせてくれず、結局できませんでした。
傍に夫が立ち会ってくれないと絶対にダメ(これには特に異論はありませんが)。
日本語は余り得意ではないので、傍のだんなさんが通訳してくれました。
散々言われたのが、この痛いのを早く何とかして欲しい…だったのですが、無痛分娩をやるような時代と病院ではなかったので、ひたすらラマーズ方を指導するしかできませんでした。
おそらく、二度とこんな病院で産むもんかと思ったことでしょうが、初めてのお産、しかも外国、母国語通じないでは、その気持ちも仕方がないでしょう。
分娩台の上で暴れてくださりました。
足乗せ台壊れそうでした。分娩台がぎしぎし鳴り、隣に立って手を握っている夫をばしばしたたいていました。
時には傍で励ます実習生の手をがしっと握り締め、何事かを叫んでいます(でも英語じゃないのでわからない。…英語だとしてもわからないけど)。
おお、神よ!とかなんとか言ってたらしいんですね、後で聞いたところによると。
「う…」
助産婦さんの冷や汗に満ちた顔。
大きな声では言えませんが、どうやら赤ちゃんではなく、浣腸しなかった分、別のものが出てきたらしいです。
とかなんとか片付けている間に、ひときわ大きな声で産婦さんが叫んだところ、助産婦さんの制止の声も届かず、あっという間に一気に赤ちゃんが出てきました。
傍で立っていた先生もびっくり。
会陰切開といって赤ちゃんが出やすいように切ることをするのですが、そんなもの必要なしと言うくらいに安産。
発露(赤ちゃんの頭が見えること)の時間も出生の時間もどう記録していいかわからないくらい突然でした。
もちろんとっさに時計は見て確認しますし、そばに別の助産婦さんが付いていますので何の問題もありません。
ただ、実習記録には細かく記録をつける欄がありました。
赤ちゃんは回りながら出てくるのですが、どちらの回旋だったかすら覚えがありません(正確には見る暇がなかった)。
助産婦さんさえ、多分こちら側…という曖昧さです。
やっとのことで出産を終えた産婦さんは、…とても穏やかなよい人でした。
傍に付いていた実習生を「ありがとう、ありがとう」とねぎらい、傍に付いていた夫と抱き合って喜び、見せられた赤ちゃんにはキスマークが付くほどのキスの嵐。
表現方法がダイナミックなだけで、いたって普通の人です。
出産は人を変える…と思いました。
その場にいた実習生は皆、せめて迷惑かけないような産婦になろうと心に誓ったのでありました。
その○年後、本当にその通りになったかどうかは、皆自信がないに違いない。

(2005/11/15)

29.産科実習その2

正常分娩以上に異常分娩が多い大学病院なのですが、実習中ももちろん遭遇しました。
悪阻(つわり)がひどすぎて、栄養失調気味になり入院された方は悪阻が治まるまでほとんど食べ物を口にできない状態だったり、早産を抑えるために絶対安静の方がいたり、あまりにも胎児が大きすぎて帝王切開にならざるを得なかったりと入院している妊婦さんにもいろんな方がいらっしゃいました。
そんな中、分娩室にひっそりと入室された方がいらっしゃいました。もう一つの分娩室には既に陣痛のきた方がいらっしゃいましたので、産科は大忙しでした。
私たちは助産婦さんの手伝いのために二つの分娩室を行ったり来たりしていましたが、もうすぐ生まれる喜びと生まれてしまう悲しみが対照的でした。
もう一人の妊婦さんにの胎児は、生まれ落ちた瞬間に死んでしまう無脳児だったからです。
無脳児とは、文字通り脳がほとんどない状態の胎児です。おなかの中では呼吸する必要がないので生きていられますが、生まれ落ちれば肺を使って呼吸しなければなりません。呼吸は脳からの指令がなければすることはできません。
脳の大小はあれど、長時間の生育はやはり難しいようです。
無脳児であることは、エコーをすれば判明します。
この妊婦さんはこのとき6ヶ月でした。
この出産は、陣痛促進剤を使って体外に出すことを目的としていたため、ずっと泣いていらっしゃいました。
付き添いの方もおらず(これは妊婦さんが断ったようでもありました)、私たちは入れ替わりでその日ずっと付いていることになりましたが、何か出来ることも声をかけることも出来ませんでした。
生まれた無脳児の赤ちゃんは、本当に小さくて、一言も声を発することもないまま息を引き取りました。
本当に泣きたかったんですが、私たちにはまだ仕事がありました。
分娩後の処置と、もう一人の妊婦さんのお世話です。
無脳児を出産された方は翌日、またひっそりと退院して行きました。
もう一人の妊婦さんは、もう一方の分娩室にも他の妊婦さんがいることに気づいたようで、自分が無事に出産をされた後に「もう一人の方は無事に生まれましたか?」と聞かれました。
私たちは一瞬言葉に詰まりそうになりながら、精一杯の笑顔で「ええ、かわいい赤ちゃんでした」と答えました。

自分が出産した今となっても、無事に出産できるというのは、本当に奇跡なことだと思っています。
その中でも五体満足で生まれ落ちる奇跡というのは、当たり前なようで当たり前じゃないということを全ての人に本当はわかってほしいのです。
妊娠するというのは、それだけで奇跡なようなことなのだと。

(2009/07/27)

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