パトロール日和








唐沢は、切れた電話を不思議そうに眺めた。
電波が途切れたとか?この時代に?
電波の届かない場所はないと言われている現代に、電話が不意に途切れたことで、唐沢は首を傾げるばかりだ。
それが自分の危機とは思ってもいなかった。
「唐沢君、どうかしたかね」
「あ、いえ、班次長、何でもありません」
話しかけられて、唐沢は窓の外を何気なく見た。
この辺りは詳しくないが、現場に向かったときと比べると、違うルートを通っているんだろうと思われた。
行きは緊急急行で何もかもすっ飛ばして行ったので、実は道がよくわかっていないこともあった。
それでもE地区を過ぎた辺りでさすがに道が違うと感じた。
「あの、これからどこへ行くんでしょうか」
「優秀な君に手伝ってもらいたいことがあるんだが」
「でも、他の医療班員の方々と違って私はまだ慣れていないので…」
「君じゃないと意味がないことだから関係ない」
「あの、では、研修を指導してくださっている隊員に一言連絡をしておきたいので、電波が通じるところで一度止めていただけませんか。先ほども切れてしまって、心配していると思うんですが」
「もうすぐ着くから心配ない。そこで連絡をすればいい」
「…わかりました」
唐沢は通じない電話を眺めてから、もう一度車の窓の外に目をやった。


漆原はサカキバラの後ろでバランスを取りながら、マツオカからの連絡を待っていた。
腰につけた無線からは後処理を告げる連絡と現場から突然いなくなったサカキバラと漆原を探す声が聞こえ、切り忘れたことを思い出した。迷った挙句そのまま無線のスイッチを切り、電話だけを握り締めた。
「そろそろE地区も抜けるけど、まだマツザカから連絡はないの?!」
風の音で聞こえにくいが、サカキバラの怒鳴り声に妙に冷静に突っ込みを入れた。
「…マツオカですよ」
「急カーブ!」
サカキバラの声に遠心力で吹っ飛ばされないようにバランスを取るのはなかなか至難の業だった。サカキバラに遠慮というものはない。おそらく後ろに乗っているのが漆原だからというせいもあるだろう。バイクのレースに出ればさぞかしいい成績だろうと思われる。
カーブをぎりぎりのタイミングで通り抜けたところで電話が鳴った。
『次長の甥がADMに骨折で入院してる。彼女のいた時期と一致。最近はG地区のマンション暮らし』
「詳しい住所くれ」
『今送る。ビンゴか?』
「…わからん。可能性があるなら行ってみる。引き続き他も調べておいてくれ。それから、この電話が通じなくなったら理由は何でもいいから隊員をよこしてくれ」
『了解』
話している間に地図が送られてきて、サカキバラに住所とともに伝える。
サカキバラは何も言わずにさらにバイクのスピードを上げた。
市内の地図はほとんど頭に入っているのだ。
これで間に合わなかったら、自分は一生悔やむだろうと思ったが、一方で間に合わないはずがないという馬鹿げた自信もあった。
一度その自信過剰なところが全部ぺっしゃんこになっちゃえばいいのに。そうしたら…思いっきり笑ってやるのに。
テストの成績でほぼ予想通りの出来栄えだったことを話したら、唐沢にそう言われたことを思い出した。
残念ながら、学生時代にその自信がぺっしゃんこになる機会もなかった。
もしも唐沢に何かあったら、ぺっしゃんこになるだけで済むだろうかと考えると漆原は身震いした。
確実にサカキバラには再起不能にされそうだった。
唐沢は笑うどころか今度こそ顔を合わせるのも嫌がるだろう。
苦い想いを思い出したとき、目的地に着いた。


車から降りると、不意に電話の電波が戻るのがわかった。
…妨害電波?車に?何で?
唐沢はポケットの中に入れたまま電話のボタンを気づかれないように押し続けた。
「ここは、どこなんでしょうか」
唐沢は目の前の屋敷を見つめた。
この辺りはどうやらお金持ちの家が多いのか、このマンション全盛時代に庭付きの家が並んでいるのが珍しかった。
唐沢が車から降り立ったそこも屋敷の敷地の一部で、敷地内に駐車場も設置されていた。
「私邸の一つだよ。ぜひ君に会いたいという者がいるので、招待させてもらった。来たまえ」
「いくらなんでも勤務中ですし」
思わず後ずさりすると、すばやく腕をつかまれた。
つかまれた腕は到底唐沢の腕力で逃れられるものでもなく、半ば引きずられるようにして堂々たる屋敷に連れて行かれたのだった。
頭の片隅で助けを呼ぼうと思ったとき、また漆原に警戒心がないと馬鹿にされるんだろうと思うと、囚われの身とはいえ出来ればサカキバラに助けてもらうのがいいのかもと都合のいい事を考えた。


マンションに着いてすぐに疑わしき住人の部屋のインターフォンを押した。何度か押したが応答はなく、居留守ならば押しかけるつもりで管理人室のインターフォンを押した。
確かにマンションのセキュリティは完璧に近かったが、身分証明証を見せると、管理人は渋々マンションの住人に連絡を入れた。
それでも出ないとなると、本当に留守かもしれない。
その瞬間、発信音が響き、漆原はものすごい速さで電話に出た。
電話だと思ったのが実はメールだったらしく、その慌てぶりにさすがのサカキバラも呆気に取られた。
「誰」
「唐沢」
「どこ」
「…すぐには読めない」
「何よ、それ。貸しなさい」
漆原から電話を引っ手繰ると、サカキバラは一見意味不明な文字を見つめた。
「見ないで打ったのね」
画面を見つめてから漆原と目を合わせた。
二人同時に言った。
「班次長の私邸!」
漆原はサカキバラから電話を奪い返して、再び電話をかけ始めた。
『今度は何だよ』
「班次長の私邸って、どこだ?」
『げ、何かあったらただじゃ済まないぞ』
「何かあるから行くんだよ」
『D地区の高級住宅街。行けばわかるさ、その辺りで一番由緒正しい日本家屋だから』
「…わかった」
漆原が電話を切ると、サカキバラは再びバイクのエンジンをかけた。
「ハナキさん」
「わかってる。心配しなくても最短で行ってあげるわよ」
「…いや、別の心配」
「何?」
「後で来る苦情が最小になるようにしてくださいね」
どうやら気分を害したらしく、サカキバラは漆原が完全に乗る前にエンジンを吹かせて走り出したのだった。


唐沢は由緒正しい和室に通され、お手伝いと思われる人に出された緑茶を見つめて戸惑っていた。
この状況をどうにかしたかったが、部屋の外にも誰かいる気配がしていた。
おまけに班次長が言っていた会わせたい人というのがまだ現れず、いつ逃げ出したらいいかと考えているうちに時間だけが過ぎていた。
身動きして部屋の外を見ようとすると、部屋の外からのっそりとした男が「そのままお待ちください」と告げるのだった。
軟禁状態の中で、何も持っていない自分が情けなかった。
部屋に入る前に荷物の類を全て有無を言わさず預けさせられ、大事な医療用具の詰まった制服さえも着替えさせられた。
しかも渡されたのは着物。
着付けは出来るが、当然のようにお手伝いが来て、帯をぎゅっと締められた。
…何これ、お見合い?
自分の置かれた状況は、どう見ても由緒正しいお見合いのようだった。
職権乱用じゃないのか、という疑問はもう何度も反芻した。
そして、自分がポケットの中で必死で送ったメールが、きちんと役目を果たしているのか、それだけが心配だった。
和室の戸がスーッと音もなく開き、男が現れた。
その男を見た瞬間に、唐沢は卒倒しそうなほど血の気が引いて、お見合いなんてのんきに言っている場合じゃないと気がついたのだった。


漆原は力強くバイクから飛び降りると、かぶっていたヘルメットを放り投げた。
サカキバラはため息をついて放り投げられたヘルメットを受け取った。
いつもならここでサカキバラのほうが率先して乗り込むことのほうが多いのだが、やる気に満ちた漆原を抑えて行くのも馬鹿馬鹿しくなり、好きにさせることにした。
見事な日本家屋と日本庭園を塀で囲み、周りの家とは一線を画している。
唐沢を招待した意味が透けて見え、サカキバラはもう一度ため息をついた。
何でこうも日本人ってやつは血筋だの家だのを大事にするんだろうか。いや、それは日本以外の貴族さまでも一緒か。
サカキバラはバイクを邪魔にならないように止めると、塀を見上げた。
セキュリティはどうなっているんだろうか。
漆原が小石を塀の上に投げ入れた。何も音はしない。
「昼は切ってあるんだろうか」
どうやら警報装置は作動していない様子だった。あまりにも無防備じゃないかと思ったそのとき、犬の吠え声が響いた。
「…原始的だわね」
漆原は何か考えているが、サカキバラはそのまますたすたと門まで行き、インターフォンを押した。
『はい、どちらさまで』
「N所のサカキバラと申します。至急班次長にお渡しするものを預かっております」
『ただいまだんなさまは取り込み中でございますので、代わりの者がお預かりに参ります。身分証明証を見せていただけますか』
サカキバラがIDカードを示すと、門の一部が開いて男が出てきた。女だと思って油断したのか、男は一人だった。
身体の一部が門から出ただけで用は足りる。すかさず漆原が男を門から引きずり出して当身を食らわせた。目立たないように男をずるずると監視カメラの外へ置くと、監視カメラに仕掛けた鳥の羽を取り除いた。
サカキバラとしては男の制止を振り切って屋敷内で騒いでもいいと思っていたが、漆原はさすがに慎重だった。事件のたびにこんなことをやっているので、時々漆原はサカキバラと組むと事後処理が面倒だと文句を上司に言っているのも聞いている。どちらにしてもサカキバラの突発的行動をフォローしつつ任務を遂行するのは、他の誰でも容易ではないようだったが。
門が開けばあとは強行突破しかない。
どうせ監視カメラや複数の男たちがどこかから出てくるのだろうと思う。
そこまで警備が厳重なのも、男たちを雇ってなおかつこの広大な敷地を維持できるのも尋常ではない。班次長の給料はそこまでいいのだろうかとサカキバラは自身の給料を思い浮かべた。
漆原とは暗黙の了解でそのまま敷地の奥へと走っていく。
途中で犬の吠え声も聞こえたが、気にせずに屋敷まで走りきり、たどり着いた。


唐沢は引きつりながら目の前にやってきた人物を見た。
目をそらしたいのに、目をそらすと何かされそうでそらせなかった。
足の痺れはないから着物だろうと何とか走ることはできるだろうが、どうやって逃げ出したらいいか、それだけを懸命にシュミレーションを繰り返していた。
「久しぶりだね」
ねっとっりと話しかけられた。
まさか班次長の知り合いだとは夢にも思わなかった。
「班次長は…」
自分を連れ出して会わせたかったのは、何のためだか、お見合いだと思ったのも間違いではなかったと唐沢は確信した。
入院中、この目の前にいる元患者は、唐沢の出自を詳しく聞きたがった。
自分こそが日本人として由緒正しい血族だと信じている人間はこれまでにも会ったことがある。そういう人間は、直系の流れを汲む唐沢の家のことや血族関係を気にしたが、唐沢自身を見ることはほとんどなかった。
唐沢の家の者はそういう気負いもなく、現に親戚は既に混血となりつつあり、おそらく唐沢の名も消えていくだろうと唐沢は思っている。
漆原もそういう血族をうっとおしく思っていた一人だった。
同じく直系の別の人間に追いかけられている姿を見たこともある。
時にはそんな苦労を語り合ったこともあった。
「僕にふさわしい花嫁を見つけたと言ったら、おじさんは協力してくれたんだ」
協力?監視の間違いじゃないのかと唐沢は不快に思った。
「申し訳ありませんが、私にはそんなつもりも全くありませんので。それに、私の家は既に直系ではなくて、ふさわしいとも思えませんし」
そう言った唐沢の言葉を聞いていないのか、笑って言った。
「最近あの男と一緒にいるから、急がないとと思ってさ」
あの男?どう考えても漆原のことだろうと唐沢は思い浮かべた。
それでも言い訳するのも馬鹿馬鹿しかったので、唐沢はため息だけついて否定するのはやめた。それならそれで誤解させておくほうが変なやつが来なくて助かるかも、と。
もう勘弁してよ…。
唐沢は和室の出入り口を目で確認しながらにじり寄った。
外で犬の吠え声が響いていた。
外に出たら犬に威嚇されるだろうか。犬に追いつかれずに走って逃げることは無理だろう。
でもあの犬種ならばよく知っている。
唐沢が立ち上がって和室の出入り口を開けると、もっさりした男はいなかった。
「どこへ行くの」
後ろから元患者が唐沢を引きとめようと立ち上がっている。
着物のすそを割り、袖をたくし上げて唐沢は逃げる準備をした。
もう誰でもいいから助けて〜。
唐沢の肩に手をかけられたとき、一層激しく犬の吠え声が響き、庭を駆け回っている様子が伺えた。
かけられた手を振り解く前に目の前の庭に面した窓に手をかけた。幸い昼のせいか施錠は簡単だった。日本家屋の造りは外側の雨戸で守るような面もあるので、窓も広いし、窓の施錠も簡単なものが多い。ここはおそらく昔からの家屋を改築しながら使われているのだろうと思われた。
窓を大きく開け放つと、何かの音が響いたが、この際構うことはない。
「何をするんだ…!」
でもその代わり唐沢の肩にかけられた手はいつの間にか両手になり、その一つは腰へと回されようとしていた。


(2010/09/09)


To be continued.