パトロールはご一緒に








 唐沢は仕事を片付けながら、これほど頭を使ったのは学生時代以来だと思っていた。
 次から次へと仕事が降って湧いてくる感じだ。
 これでも看護師としてのキャリアはそれなりに積んだつもりで、医療職としてはそれなりに使えるようになってきたと思っていた。
 今回のそれは医療職としての専門知識がフル回転だった。
 翻訳も必要だが、何せ医療用語は普通の辞書には載っていない。
 膨大な資料とともに唐沢の日々は忙殺されることになった。
 とある日は会議室で講演会に使う予定の動画をチェックしながら動作確認を行っていると、そこにヤマキが入ってきた。どうやら次に同じように動画のチェックを行うらしい。
 ついている教授が違うだけで、行う作業はほぼ同じなのだ。
「やあ、ちょっと早すぎたかな」
 サカキバラなら早すぎたわけではなく、わざと早く来たんだろうと揶揄するだろうと思いながら唐沢は時計を見た。
 時間は確かにわずかに早いが、もうこの時間かと思うほどの進み具合だったから、あっさりと片付けながら「いえ、もう終わりますので」と帰り支度を始めた。
 会議室自体は広いが、作業する場所は限られている。おまけに防音とくればさっさと退散するに限るというわけだ。
「本当に教授たちにも困っちゃうよね。こんな作業、本当なら大学の連中が進んでやるべきことじゃないのかな」
「大学もちょうど試験期間だから仕方がないんじゃないでしょうか。そういう説明でしたし。それに私たちの作業は当日のサポートまでですから、後片付けなんかは学生さんたちが来てくださるみたいですし」
「本当に唐沢さんは真面目だなぁ」
 唐沢は笑ってそう言うヤマキをちらりと見てから、片付いた机を見てうなずいて「では」と立ち去ろうとした。
「ねえ、ちょっと待って」
 唐沢は一瞬躊躇して、このまま聞こえない振りで会議室を出ていこうかと思ったが、会議室の出入り口で仕方なく振り向いた。
「すみません、この後も教授のもとに行かなければならないんです」
「時間は取らせないから」
 念のため、会議室のドアは開けっ放しでヤマキに向き合った。
 ヤマキは唐沢が警戒しているのを承知の上で近づいてくる。二メートル、一メートルと距離が縮まるたびに身体が強張っていく。
「この講演会が終わった後、打ち上げパーティがあるでしょ」
「…はい」
「エスコートさせてほしいんだ」
「私を、ですか?」
「ダメかな」
「ダメ以前に、パーティを辞退しようと思っていたので」
「それは僕と行きたくないから?」
「いえ。ああいう場が苦手なんです」
「でもまだ断ってはいないんだね」
「…ええ」
「それなら、少し考えてくれないかな」
「…申し訳ありません。個人的にお付き合い出来かねます」
「考えてもくれない?」
「多分考えても同じ結果になりますので、期待を持たせるようなことはできません」
「…そうか。でも、これからも誘うつもりだから」
「え、あの、それは」
「じゃあね」
 ヤマキはそれだけ言って、戻っていき、自分の作業を始めた。
 会議室の出入口で唐沢はのろのろと出てから会議室のドアを閉めた。それから大きなため息をつくと、いっそのこと地方に行ったほうがよかったかもとさらに大きなため息をついたのだった。
 そして帰り支度をしながら考える。
 この状況は、漆原からのアプローチと変わらないのにこれほど負担に思うのは、全く考えてもいなかった相手からのアプローチだからだろうかと。
 漆原とは、学生時代に最も身近にいた異性の一人ではある。おまけに初恋と言ってもいいほどの相手だった。
 今その気持ちが思い出に変わり、新たな一歩を踏み出したと思っていた矢先に、相手からの気持ちが判明したのだ。意識しないと言う方がおかしいのかもしれない。
 唐沢にもどうしたらいいのかわからないのだ。
 嫌いではないが、では付き合います、というふうにはなれない。
「このままっていうわけにはいかないのかなぁ」
 できることなら、もう一度学生の時のようにつかず離れずで今の漆原を見てみたい。
 唐沢に気付かないで仕事をしているときの漆原は、文句なくかっこいいと唐沢は思う。
 もともとができる人、だったのだ。
 唐沢と違って何でもすんなりとこなしていた、体力も、運動神経の良さも、頭の回転の良さも、その自信のある態度も、唐沢は漆原のその有能さを自分自身が欲しいと願っていた。
 女の子にもてたその身のこなしもフェミニストと言われた優しさも、悔しいほどだったのだ。何よりも唐沢には他の女に対するフェミニストぶりを発揮されることなく辛辣だった。
 何がそんなに気に障るのだろうとずっと思っていた。
 それなのに他の女の子と同じように恋してしまった自分の恋心を認めたくなくて必死に隠していた。
 あの頃の想いを思い出して、少しだけ胸が痛かった。


「お久しぶりね」
 それは医学講演会の会場での出来事だった。
 唐沢は当日まで資料の揃え足りないものはないかと教授とともに控室を出たり入ったりとしていた。
 その周辺には治安維持のために見たこともない所員まで駆り出されているのが見てとれる。
 そこまで警備を厳重にしないといけないわけは、どうやらこの講演会で講演する予定の教授数名を名指しして殺害予告が入っているのだという。
 唐沢にはちらりとしか教えてくれていなかった。
 そもそも所員がこれほど厳重に警備する意味をわかっていたようでわかっていなかったのだ。
 そうでなければ優秀な彼らが講演会に出張るわけがなかったと、唐沢はようやく気付いたのだ。
 別の講演教授のアシスタントの中にその人はいた。
 唐沢は声をかけられた途端に硬直して、一呼吸してようやく挨拶を返すことができた。
「お久しぶりです、百合香さん」
 おっとりと笑ったその人は、漆原の姉、百合香だった。
 聞いていなかった、と唐沢は大いにむくれた。
 一言くらいあってもよさそうなものじゃないかとこの場にいない漆原を恨んだ。
「真衣さんが医学講演会のアシスタントをしているなんてこと、一馬は言ってなかったわね」
「私もです。百合香さんいらっしゃるなんて」
「今は一馬と一緒の支部にいると聞いてるわ」
「はい。つい先日配属になったところです」
「後でお話でもしましょう。一馬が迷惑をかけているみたいだから」
「はい、都合がつけば」
「あら、社交辞令ではないわよ?この後のパーティ、参加されるんでしょう?」
「あ…その」
「大丈夫。一人にはさせないから」
「…考えておきます」
 唐沢はそう答えて本来のアシスタントの仕事に戻った。
 ヤマキに言った通り、パーティは参加せずに帰ろうと思っていた。
 ところが、百合香と会った後、教授は言った。
「この後のパーティなんだけどね」
 常識的に考えれば、もちろん自分は裏方なので表に出るべきではなくさっさと帰った方が良いと思っていたのだが、教授をパートナーなしで参加させるわけにはいかなかった。
 唐沢は教授に懇願され、パーティに参加せざるを得なかった。

 講演会も無事終わり、唐沢は仕方なしにパーティ用の服に着替えることにした。
 資料を駆け付けた大学の者たちに渡した後、自身が泊まっている部屋に向かうことにした。
「唐沢さん」そして、
 声をかけてきたのはヤマキだった。
「パーティに出ることになったって?」
「はい」
「それなら…」
 やはりパーティに付き合えと言われるのだろうかと思った時、目の前を誰かの背中がさえぎった。
「悪いですね。唐沢さんは俺と出ることになってるから」
そして、唐沢にとってはその背中も声も馴染みのあるものだった。
「漆原君、どうして」
「聞いてない?もう一通脅迫状が届いて、全ての参加者は治安維持係の者とペアを組むようにって。もちろん教授はうちのサカキバラが。そして、ヤマキさんにも他の女性所員が付きます」
「…なら、仕方ないな」
「そういうわけですので。行くよ」
そう言って唐沢の腕をつかんで歩き出した。
そのまま泊まっている部屋まで歩き続ける。
「さ、着替えてきて。時間は1900だから、あと一時間後に迎えに来る」
「あの、でも、それなら出なくても…」
「うちの姉と話したって?」
「あ、ええ」
「姉から連絡が来た。…ものすごく怒ってた。私に何の話も来ていないって。今までそういう連絡くれなんて言ったことないくせに」
「百合香さんが?」
「姉と仲良かったんだっけ」
「久しぶりに会って。私も教えてくれたらよかったのにって思った」
「姉の仕事知ってる?」
「確か通訳を…」
「そう。今日も呼ばれてて、リストに入ってた。知ってたくせにって怒ってるんだ」
「お姉さんと仲いいのね」
「いいと言うか…、唐沢さんと話がしたかったみたい」
「そうなの?光栄だけど、あたしでいいのかしらね」
「俺が見合い断ったのを知ってるからね」
「…ああ、お見合い…」
 そう言えば家の都合で決められたお見合いだったと漆原に説明されたのを唐沢は思い出した。
「姉は、多分唐沢さんの味方。俺が何かしたら、怒られるのは俺の方だと思う」
「百合香さん、優しいから」
「違う。唐沢さんのことを気に入ってるから」
 漆原にそう言われて振り仰いだときには、「さ、支度して」と部屋に入ることを促された。
 おそらく部屋に入らなければこの場を動かないつもりだろうと思われた。警護対象に入っている者として、部屋に入るところまで見届けるつもりで来たのだろうとわかった。
 部屋の鍵を開けると、漆原は一通りさっと部屋の中を見ていった。断りもなかったが、そういうものだと自然と組織のやり方に慣れてきた唐沢は、黙って待っていた。
 部屋の中を片付けておいてよかったと思ったのは内緒だ。
「はい、異常なし。きれいに片付いていてちょっと残念」
「な…」
 唐沢が抗議しようと口を開いたが、唐沢の顔を見てにやりと意地悪そうに笑った漆原の顔を見たら、あの学生時代の意地悪を思い出してそれ以上何も言えなかった。
「ドレスアップ、楽しみにしてる」
 抗議しようと口を開きかけたそのままの唐沢を面白そうに見た後、漆原はそう言って部屋を出ていった。
「…やられた。油断した。何で文句言わなかったんだろう、私」
 思わずベッドの上に力なく突っ伏してそんな言葉が口をついて出た。
 そして、はっとすると時計を睨みつけた。
 迎えに来ると言った時間まで残り時間も少ない。女が支度する時間としては少々心もとない。
 唐沢は慌てて支度を始めることにした。
 漆原のエスコートときては、あまり変な格好もできない。何せ容姿だけは間違いなく上物の部類の男なのだ。
 唐沢自身が恥をかくのはともかく、恥をかかせるのは本意ではない。
 それに百合香との約束もある。
 唐沢は仕方なしに着るはずのなかったドレスを引っ張り出すことにしたのだった。

(2015/05/10)


To be continued.