パトロールはお静かに








 あまり代わり映えのしない日々に唐沢はようやく安堵の心持だった。
 あれ以来コンドウが現れては何かと一緒にランチをしたり、サカキバラも含めて四人で過ごすこともあり、漆原と二人きりにならずに済んでいた。
 二人きりになって、また学生時代の話を追求されても困る、と唐沢は思っていた。
 あのときの気持ちが消えてなくなったかと聞かれたら、答えはNOと言わざるを得ない。
 飛び級で過ごした学生時代だったが、それ以降の忙しかった日々を思うと、やはりあのときほどゆったりと過ごせたことはなかったのだと思う。
 漆原がそばにいればいるだけ、あの頃のことを思い出してしまうのもなかなか辛かった。
 あの図書室で直系の女は選ばないと聞いた日から、唐沢はそれ以上漆原に近づくまいと懸命に自制したのだ。自分の存在は迷惑だったのかもしれないと反省する日々は、卒業まで続いた。
 それがどうやら漆原にとっては記憶にすら残らない出来事だったとあっては、すぐに割り切れるものでもない。
 あの頃の自制を思うと、腹立たしくさえ思う。
 おまけに離れて何年もたち、ようやく忘れかけた頃の再会とあっては、もう二度と忘れることはできないだろう。自分で言うのもなんだが記憶力はいいほうなのだ。
 それよりも、ここのところ繰り返される漆原からのアプローチらしきものをどう対処したらいいのかわからなかった。そもそもあれはアプローチなんだろうか、というところから疑問だ。
 恋愛経験豊富とは言えない唐沢は、やはり血族に対する失敗や不快な思いで今では男嫌いになりつつあり、旧知である漆原さえも警戒をしてしまうのだ。
 それなのに、自分の机で書類を書き終え、身動きしない横を見ると、じっと唐沢を見ている視線にぶつかったりして、固まってしまうことのほうが多かった。
 サカキバラとコンドウの話からすると、これも一種のアプローチととってもいいのだろうが、学生時代の意地悪とは正反対過ぎて、素直に受け取れなくなっていた。
 考えてみれば意地悪だったのは唐沢にだけであったから、それはそれで特別扱いで、それもアプローチの一種だったと言われればそう思えないこともない。
「…何?」と穏やかに話しかけると、「…いや、別に…」と返される。
 それでも仕事上研修を面倒見てくれているのはサカキバラとその漆原なので、意を決して話しかけた。
「書類、まとめてみたんだけど、確認してくれる?」
「あ、うん」
 ちなみに書類は、ほとんどペーパーレスのこの時代に未だしぶとく生き残っている代物である。結局はパソコン上に入力する手間もいるわけだが、無駄なことをするのも大事な仕事、とサカキバラなどは揶揄する。そのサカキバラは報告も何も全て直接入力してしまうので、デスクワークは驚くほど少ない、というより早い。
 もちろん研修中の唐沢が真似できるものではないので、こうして無駄な書類にも時間を費やしているのである。
「ここのところだけど…」
「あ、うん」
 指摘されたところを直そうとペンを握りなおしたところで、漆原の目線が止まった。
「唐沢さんの手って、いいよね」
「…は?」
 突然話題が変わり、思わず唐沢は自分の手を見た。
 ペンを持っていないほうの左手だったが、広げて自分で見てみても何がどういいのかさっぱりわからない。
「うん、よく見てたなあ、前も」
 ぼんやりとした口調でそう言われて、唐沢は漆原の顔を思わず見た。
「…前って…」
「ん?学生のとき」
 ええ?学生のとき?と驚いて問い返した唐沢だったが、だってさ、と漆原の手が伸びてきた瞬間、「セクハラチョーーーップ!」と声が響いた。
 そして、世にも恐ろしげな音が漆原の頭に響いた。
「あら、命中。煩悩に現を抜かしてるからよぉ」
「…ったいなぁ…。死んだらどうしてくれるんだよ」
 漆原が振り向いたそこには、もちろん特殊班のコンドウが仁王立ちしていた。
「ハナキ姉さんがお呼びよ」
「何でおまえが呼びにくるんだ」
「唐沢ちゃんとランチしたいからに決まってるじゃない」
「…あっ、そっ」
 またもや不機嫌になって立ち上がると「これ、続き後でね」と唐沢に言い残して課内を出て行った。
 思わず唐沢が息を吐くと、コンドウは先ほどまで漆原が座っていた席にどかっと座り、安物のイスをきしませた。
「漆原は、所内で何て言われてたか知ってる?」
「えーと、フェミニスト、とか」
「あら、よく知ってるわね」
「学生のときも確かそんなこと言われていたから」
「それなのに、唐沢ちゃんにだけ不機嫌も隠そうとしないってどうよ?」
「どうって、言われても…多分今更つくろっても仕方がないから?」
「そうかもしれないけどぉ、あいつの場合はナチュラルにセクハラよね」
「…はぁ…」
 不機嫌さとセクハラがどう結びつくのかよくわからなかったが、唐沢はもう一度自分の手を眺めて、こちらもやはり何がどういいのかさっぱりわからないままランチに行くことにした。


「ハナキさん、用事はな…」
「こっち!」
 サカキバラから呼び出しとくれば、たいていは屋上か資料室だったりする。
 今日は雨天で屋上はないとすると、一般的な資料室だろうと予想をつけた。誰かがいても構わないが、その場で資料も漁れるし、それこそ誰もいない場合も多い。
 いつものサカキバラからすると、この呼び出しの仕方は少し違う。
「…一体なんですか」
「漆原、あんた、あの女に見覚えは?」
「あの女って…」
「ほら、そこの受付にいる白い服の女よ」
 資料室から引っ張り出され、受付の見える窓を示された。
「あれは…」
 少し遠目でわかりにくかったが、もしかしたら以前に何かの事件であったことのある女かもしれない、と漆原は思った。
「親しい人間でないことは確かですが」
「あの女、あんたが出てくるまで待つつもりよ」
「…何でそんなこと知ってるんですか」
「このあたしが直接声をかけられたからよ」
「どんな風に?」
「漆原一真さんはいらっしゃいますかって。今はいないって答えたら、帰るまで待つって」
 もう一度窓から見てみるが、やはり面識はないようだった。
 どちらかというと美人。それもどちらかというと日本人に近い。
 そこまで考えたとき、何だか嫌な予感がした。
 先日から実家の呼び出しをことごとく蹴っていることと関係があるとすれば、もしかしたらこれは実力行使か。
「心当たりありそうね」
「会ったことはないと思う、けど、関係がないとは言えない」
「まさか実は許婚でしたとか」
「…嘘だろ」
 サカキバラの言葉に思わず青ざめた。
「ええっ、本当に?!あんた、唐沢ちゃんはどうすんのよ」
「いや、どうもこうも何もないですけどね」
「じゃあ、許婚なんだ」
「だから、知りませんってば。でも、家の者が勝手に画策したら、ありえないことじゃないです」
「はぁ…、直系って、面倒ね」
「いや、むしろ唐沢の家が自由なんですよ」
 唐沢の家が真の直系ではないにしろ、両親からその上の代までさほど混血というわけではない。十分に純日本人と名乗っても差し支えのないレベルだ。それなのに、それほど家系に縛られずにいられるようだと言うのは、学生時代に聞いたことがあった。
 そこへいくと自分の実家である漆原家は、しつこいくらいに家系を守りたいようだ。
 意味のないこだわりだと何度も言ってみたが、両親、祖父母ともどもくどいほど日本人の嫁をと声高に言う。
 これでもし本当に唐沢を連れて行ったら、あの親たちを喜ばせるだけだと考えると、無性に腹が立つのだった。
「どうやって追っ払う?」
 サカキバラはやけに楽しそうだ。
 当分はこれをネタにいじられること決定だろう。
「もしも本当に許婚だったら直接断りますよ。違うかもしれないですし」
「あらそう、つまらない」
 そう言うと、高みの見物とでも言うようにサカキバラはニヤニヤ笑って漆原を送り出した。

 漆原は資料室を一旦出て一般フロアに回ると、ゆっくり玄関方面から受付を通ろうとした。
 自分の顔を知っているなら声をかけてくるだろうし、そうでなければ受付から声がかかるだろう。
 受付を通り過ぎる直前、受付が声をかけた。
「漆原さん」
「はい?」
 振り向いて、受付に顔を向けた。
「面会の方がお待ちです。成瀬沙紀とおっしゃる方ですが、どうしますか」
「いや、知らないな…」
 本当に知らなかった。もう一度よく考えてみても、親戚筋にも成瀬姓のものはいなかった。
「漆原…一馬さん?」
 受付とは反対方向から声がした。
 ゆっくり振り向くと、先ほどサカキバラに言われた白い服の女性が立っていた。
「…どちらさまですか」
 少しだけ警戒して答えた。
「はじめまして。成瀬沙紀と申します。お話したいことがありまして、待たせていただきました。少しだけお時間をいただけないでしょうか」
「では、そこで」
 訪問者に対して使う応接セットのある場所を指し示した。
 まだ家からの者と決まったわけではないからだ。
 応接セットに向き合って座ると、遠慮なく成瀬沙紀と名乗った女性を見た。
 背中まである髪は艶やかで手入れもいい。白い小さな顔に少々きつささえ感じさせる瞳。
 少しだけ唐沢の面影と似ている。いや、似ていると思うのは、その黒髪と小さなつくりの顔のせいか。
 唐沢よりも背が高く、多分スタイルも悪くない。
「…私は合格ですか?」
 少し笑いを含んだ声で成瀬はそう言った。
「仕事柄、人を観察するのが癖で…失礼しました」
 冷たくそう答えて確信した。紛れもなく実家からの見合い相手だと。
「言わなくてもお判りかもしれませんが、成瀬の家は尾張は北に位置する一族のものです。
 その昔は城をも所有する程の一族でありましたが、世の流れでただいまはその直系を残すのみとなっております」
「全く判りませんね。生憎エスパーではないので」
「お話に気が乗らない、というのは伺っております。
率直に申しますと、私もあれこれお話をいただいて迷惑だと思っている一人です」
「それなら、このままお引取りを」
「ですが」
 成瀬は漆原を見つめて艶然と微笑んだ。
「他のどうしようもない殿方と一緒になるくらいなら、一馬さんとのお話を受けたほうが私にとってもいいような気がしてきました」
「勝手に言われても」
「後々気にそぐわない相手と一緒になるほど私も言いなりではございません。
でも、あなたの御顔を拝見して決めましたわ」
「意味がわかりませんが」
「わからないままでもよろしいんですのよ。どうせ家同士が決めることですから」
「あなたは、俺の顔が気に入ったということですか」
「そうですね。容姿は大事でしょ。どうしても好きになれない顔というのはありましょう。
それから、あなたのその用心深い性格と身のこなし、でしょうか」
 漆原は言葉もなく成瀬を見た。というよりは半ば睨んでいた。
 家に対する憎しみなのか、同じく家に逆らえずに見合いを受ける女に対してなのか、この場でこんな風に対峙しなければよかったと思っていた。
「一馬さんはさぞかしおもてになることでしょうね」
「…さあ」
「こちらにいる間にも、一馬さんの噂はお聞きしました。
そんなあなたですから、心にお決めになった人の一人や二人いらっしゃってもおかしくはございませんよね」
「…そんなこと、あなたには関係ありません」
「そうですか」
 こんな風に険のある話をしているにもかかわらず、成瀬はそれを面白がっている。
 沈黙が支配したのを見て取ると、すっと立ち上がって「では、また、今度ゆっくりお会いしてくださいますね」と念を押すようにして帰っていった。
 周りは相変わらずざわついていて二人の会話を聞かれた様子はないが、漆原は一つため息をついて立ち上がった。
「なかなかやるわね、あの女」
 前触れもなしにそう言ってサカキバラが立っていて、漆原は久々に驚いて後ずさった。
 がたっと応接セットがずれる音がして、サカキバラは漆原を見て笑った。
「何、油断しまくりじゃないのさ」
 漆原はずれた応接セットを直しながら言った。
「…聞いてたんですか」
「もちろん!」
 漆原は威張ってそう答えたサカキバラを無言で見て、肩をすくめた。
「それなら、せいぜい黙って見守ってください」
「唐沢ちゃんのこと、ばれるわよ」
「ばれるどころか、知ってるんでしょうよ」
「あ、やっぱり?あれはやっぱりそういう意味なわけ」
 漆原は、この先唐沢が巻き込まれるかもしれないと思うと、盛大なため息をついた。

(2011/05/30)


To be continued.