パトロールはお静かに








 医療班は、基本的にパトロールをする地域安全課とはまったく別の組織と言っても過言ではない。
 何か有事があれば出動する。
 かつての警察組織では、医療班なるものはなかったし、今も普段の捜査段階では当然医療班の出番はない。
 かつては何かあれば消防救急が活躍していたからだ。
 しかし、昨今、消防救急が民間の救命活動だけでいっぱいになりつつある中、独自に医療班を結成して活動することになったのだ。
 自衛隊の流れを汲むのか、採用後にある程度の訓練も受けることになっている。
 唐沢がその訓練を何とか終えて地域パトロール研修に組み入れられたとき、いずれはどこか他の地域に飛ばされる可能性も考えていた。
 環境を変えたいと思っていたところなので、それに関しては文句もないし、むしろ歓迎だったのだが。
 午後には医療班で組織としての役割や書類仕事、報告書の提出などがあるため、たいてい一度は医療班に出向くことになる。
 医療班の建物は同じ敷地内とはいえ、所内を少しばかり歩くことになる。
 さすがに漆原が付いてくることはなかったが、もしかしたら班の建物に入るまで見ているくらいのことはしているかもしれない。
 そんな漆原たちと食堂でお昼を済ませた後、唐沢は医療班に顔を出す予定だった。

「唐沢さん」

 行く途中で呼ばれて顔を上げると、同じく研修中の者だった。
 ただしこちらは体格も立派な男性だった。
 一瞬足を止めて躊躇したが、何とか踏みとどまって不自然にならない程度に距離を空けて歩き続けた。

「こんにちは」

 それだけ言うと、あとは顔を見ずに歩き続ける。
 隣を歩き出したこの研修生は、名をなんと言ったか。ヤマキだったか。詳しくは覚えていなかったが、唐沢より年上であるのは間違いないだろう。
「そろそろパトロール研修も終わりだね」
「ええ、そうですね」
「どこか希望する地域はあるの」
「配属のことですか」
「そう。唐沢さんなら中央に行っても通用するんじゃないかな」
「…でも、私、軍事訓練は全くと言っていいほどたいした成績ではなかったので」
「屋外訓練は体力づくりと規律を知らしめるためで、医療班ではそれほど問題にならないでしょう」
 唐沢は親しげに話してくる男の隣で、どうしても慣れることができなかった。
 もしもこのままさりげなく肩をたたかれようものなら、飛び上がってしまうかもしれない。
 そういう警戒をついしてしまう。時々、馬鹿みたいに自意識過剰ではないかと思いながら。
 早足で歩いたお陰で医療班の建物に着く。
 建物の中に入ると、同じく研修生の女性もいる。
「配属先は…どこでもいいんです」
 唐沢は見つけた親しい研修生に向かって手を振りながら、隣にいたヤマキに軽く会釈して走り去った。
 ヤマキの手が唐沢の手をつかみ損ねたかのように空を切った。
 唐沢は少し安堵しながら親しい研修生に何気ない話題を持ちかける。
 会話しながらも別のことが頭をもたげる。

 配属先を選べるならば…。
 まだ、迷っている。
 返事を先延ばしにしていること。返事次第によってはここにいてはいけないのかもしれないと思っていること。
 嫌いじゃない。
 でも好きかと言われると自信がない。
 見合いの話に動揺したのは事実だ。
 好きだからなのか、好きだと思われていたのにというつまらない自尊心か。
 誰かに相談したい。
 でも誰にも相談できない。
 相談したからと言って答えが出るわけではない。
 答えは自分の中にある。
 このまま離れても後悔しないか。
 しないと言えば嘘になる。
 再会しただけで、数年前の出来事を鮮やかに思い出して動揺したというのに。
 片想いだったはずなのに、両想いだったという。
 それなら、あの頃のあの苦しい想いはいったい何だったのだろうと怒りもする。
 ようやく忘れたと思ったのに。
 こんなに簡単に思い出して。
 好きと言われたからもう一度好きになる?
 それとも…。

 唐沢は、悩みに悩んで漆原に返事をすることにした。

 * * *

 実家に行った日の午後、漆原は成瀬沙紀が通っているという大学に来ていた。
 事前に聞いた情報によると、ここの国際文化部に所属しているはずだ。
 誰かに聞いてみるかと思うより先に、漆原は成瀬沙紀を見つけた。彼女も目立つタイプではあったのだ。

「話がある」

 そう切り出した漆原に、成瀬沙紀はただうなずいて大学近くのコーヒーショップに行った。
 程よいざわめきで、少々込み入った話をしても他に聞かれる心配はなさそうだった。
 しかし、周りより若干浮いた感じがするのは、この二人の容姿のせいかもしれない。
 端から見れば十分に美男美女のカップルだ。

「それで、わざわざ実家にまで話を通して、お断りしたいと」

 ラテを飲みながら、成瀬沙紀は笑った。
 成瀬沙紀にしてみれば、わざわざ断りを入れなくてもそれくらいのことはわかっていた。
 今更断りを入れるのは、よほど邪魔をされたくないということだ。
「もともと見合い自体も成立していませんけれど」
「それなら」
「だから、私は言いましたでしょう」
「俺の気持ちはどうなる」
「そうまで言うなら私も別にとことんまで邪魔をする気はありません」
「その気満々だったろうに」
「ええ、だって写真の時点でお断りされたのは初めてだったんですもの」
「そんなことで」
「まあ、ちょっとした女のプライドです」
「じゃあ、同意ということで」
「それとこれとは別でしょう」
 思わず漆原は目をむいた。
「どう別なんだ」
 飲んでいたコーヒーを噴出すかと思った。
「お見合いに関係なくあなたがいいと思ったからです」
 これにはさすがに漆原は答えられなかった。
 これは告白か?と漆原が考えている隙に、成瀬沙紀は見事な微笑を見せて空になったラテの容器をゴミ箱に放り込んだ。
「あなたたちに隙があれば、これからも割り込ませていただきますわね」
 宣言するかのようにそう言って、成瀬沙紀はコーヒーショップを出て行った。
 残ったコーヒーを飲みながら、漆原は顔をしかめた。
 どうして俺の周りはこうも強い女ばかりなのだろうと思いながら。

 * * *

 パトロール研修も今日で終わりだった。
 サカキバラの家からの通勤も終わりで、どうやら漆原的には話をつけたととのことらしい。
 唐沢は荷物をまとめておき、サカキバラとともに所へ向かう。
 いつもなら漆原が迎えに来るが、今日に限っては「パス」と言われて来ないことになっている。
 さすがに返事をする期限のせいなのかもしれない。
 唐沢はぎりぎりまで、本当に昨夜までずっと考えていた。
 サカキバラは正直に言えばいいとそれだけアドバイスしてくれた。

「唐沢ちゃん、ぐっもーにん」

 踊るように現れたコンドウにも慣れた。
 その嗜好のせいか、コンドウに近寄られてもさほど嫌悪感もない。
 ただ、身体が大きいせいか圧迫感を感じるが。

「今日でパトロール研修も終わりね〜」
「はい、いろいろありがとうございました」
「医療班へ完全に戻っちゃうと、たとえここに配属されても余り会う機会はないわねぇ」
「そうなんですか」
「ううん、そうね、でもまた会いに行っちゃうわ」
「やめろ、迷惑だから」

 そう言って現れたのは漆原だ。
 ちょっとだけ息を詰めたが、すぐに気を取り直して「おはよう」と挨拶をした。
「うん、おはよう」
 漆原はそう返しただけですぐにその場を去った。
 何か荷物を取りに来ただけのようだ。
 そんな漆原を見ると、学生の頃を思い出す。
 目が合えば挨拶はしていた。
 登校するとつい目が合うのだ。
 それはお互いにお互いを気にしていたせいもある。
 地域が一緒だったので小学校も一緒だった。もちろんいつも同じクラスだったわけではないが、全く知らなかったわけではないからだ。
 中学に上がり、本格的に飛び級制度が始まると、同じく飛び級した漆原とは常に一緒だった。年齢のせいで他の同級生とはあまり親しくなれなかったし、敬遠されてもいた。
 途中で漆原の姉とも一緒になった。
 三歳上の漆原の姉は、見た目同様に聡明だったが、のんびりと過ごしたいと飛び級制度を利用しなかった。
 弟が同じクラスになってもさほど気にしていなかったようだ。
 少しだけ浮いていた唐沢をさりげなく構ってくれた。
 同じ純日本家系というのもあったのだろう。
 いつものように漆原が少しだけ意地悪だった後、彼女は言った。
「一馬が意地悪でごめんなさいね」
「…ああ、はい、あ、いいえ」
 どう答えていいかわからず、どちらとも取れる返事をしてしまった。
 内心はどうして自分にだけ、という思いもあったのだが。
「一馬がああやってあなたに言うのは、他に誰もいないときだけだから」
 それこそ意地悪で困る、と唐沢は思った。
 泣かすほどの意地悪では決してない。
 その絶妙な意地悪加減とでも言えばいいのか。
 たとえば国語。文章の解釈の違い。
 たとえば数学。ちょっとした計算ミスの指摘。
 研究発表の中身。俺だったら、という悔しいことに自分では思いつかなかった方向性。
 小さすぎて届かなかった本棚の本。その選んだ本について。
 それでも気がついていた。
 努力したその分を馬鹿にしたりはしなかったこと。
 後ろから計算ミスを指摘したことによって、唐沢自身が助かったこと。
 嫌味を言いながらも手を伸ばして本を取ってくれたこと。
 言い返したその後で、悪かったと言うように仕草で示したこと。
 結局、そう、結局そのたびに好きになってしまったこと。
 他の誰かにはもっと優しかったのだから、それくらいの優しさは何でもないことだったのかもしれない。
 今思えば、気がつかないうちに罠にはまったかのようだ。
 ただ救いは、漆原自身もそんな罠をはったつもりはなかったことだろう。
 それが特別だったのだと言われれば、そうなんだろう。今になってそう思える。
 今の漆原は、あの頃が信じられないくらいに優しい。
 正直言って慣れない。
 別人かと時々思うくらいだった。
 もちろん好きだと告白されてなお意地悪なんてありえないのかもしれないが。

「そう言えばサカキバラさんは」
「ハナキ姉さんも何か呼ばれて…」

 そう言ったコンドウが、再び現れた漆原と一緒に入ってきたサカキバラを示した。

「ああ、ほら、もう来たわね。
それじゃ、あたしも行くから。ランチは一緒にしましょうね」
「はい」

 そう答えた後、コンドウは課を出て行った。
 もしかしたら、サカキバラも漆原もいない状況を知っていて傍にいたのかもしれないと思った。

「唐沢ちゃん、朝礼はなしよ。すぐにA地区に行くから」
「はい、何か」
「火炎瓶持った男が立てこもり」
 そう言われて、唐沢は見につける救急セットの中身を入れ替える。
 怪我はもちろんだが、火傷にも対処できるものでないといけない。
 迷った末、いつものセットに手持ちのバッグを加える。
 多分医療班自体も出動するだろうが、まだ出勤前の者も多いだろうし、揃うのはもっと後だろう。
 こういうとき、コンドウは出動しないのだろうかと思うが、他にも重要な案件があれば、まずはサカキバラたちが出動することになる。
 なぜなら、課内でも優秀な者たちだからだ。
 唐沢はこういうときに漆原の凄さを思い知る。
 それなりに自分も経験を積んできたつもりだったが、同じ場所に立ってみると、やはり漆原にはかなわないと感じる。
 飛び級が一緒だったとはいえ、成績自体はわずかに漆原のほうが上だったこともわかっている。
 同じようには無理だ。
 でも、別のことでは役立てるはずだ、と唐沢は思い直した。


 現場は、膠着状態が続いていた。
 男が立てこもった中には、まだ開店前の和菓子屋。
 何故そこなのか、それはただの不運としか言いようがない。
 別の事件で逃げた犯人が、偶然開いた勝手口から逃げ込んだだけのことだ。
 仕込みも早いその和菓子屋には、職人とおかみさん、売り子であるその娘がいた。
 突然乱入した男になす術もなく、全員の動きが止まった。
 何よりも人が大勢いることに驚いた犯人が、手に持った火炎瓶を一つ投げつけた。
 更に隠し持っていた可燃性の物質に火をつけようと構えられたら、もうどうしようもない。
 最初に投げられた火炎瓶は何もない土間に落ちたため大事には至らなかった。
 逃げ込まれた時点で決着をつけてしまったほうが早かったのだが、それはただの捜査員に言っても詮無いことだ。
 治安維持係に出動要請が来るまでに、いろいろ考えた作戦もことごとく裏目に出たらしい。
 作りたての和菓子なんかもあって、お腹が空いていたらしい犯人にとっては幸運だったのだろう。
 当然逃げるための算段をしているはずだったが、犯人はなかなか動かなかった。
 この際突入もありという判断になって、付いてくるしかなかった医療班の連中は、車にそのまま待機していたのだ。
 まさか犯人に共犯がいたとは思わなかったのだろう。
 これも捜査側の失点であったことは確かだ。
 半分開いたワゴンタイプのドア付近で様子を窺っていた医療班の中で、多分一番人質にしやすかった唐沢に、誰か知らない男の手が伸びた。
 叫ぶ前に唐沢の身体はワゴンから引きずり出され、周りの人間が気づいたときには既に人質然としていたのだった。
 もちろん医療班のほかにいち早く気づいたのは漆原で、多分誰よりも唐沢の動向を気にしていたからだろう。これは後でからかわれることにもなったが、そんなことはこの際どうでもよかった。
 唐沢は震えだしそうになる身体を何とか堪え、まだ拘束されていなかった腕をそろそろと動かし、腰につけたポーチからすぐに取り出せた医療用のハサミを握り締めた。
 唐沢の身体を捕らえた男が周りに注意をめぐらせていたお陰で気づかなかったのも幸いだったかもしれない。
 それに、華奢な唐沢がまさかそこまでの決意をもっていようとは思わなかったのかもしれない。
 いざとなったらこれで突き刺す、と思いながらもう一方の手で薬品をつかんでいた。
 その小さなビンは消毒用エタノールだったが、ふたを開けると臭いが漏れて気づかれるかもしれず、片手でそろそろとふたをずらして準備するのみだった。
 まだその時点ではサカキバラと漆原が頃合を見計らっているくらいで、何かきっかけがあれば立てこもりも唐沢を捕らえている男も一網打尽にするつもりだったにちがいない。
 唐沢もそれはわかっていて、無茶はしないつもりだったが、このまま黙って待っているのも動きづらいだろうとの思いで薬のビン、だったのだ。
 漆原と目が合い、軽く頭を横に振られた。
 唐沢の動きを知って、無理はするなと言うつもりだったのだろう。
 うなずきたかったが、首を羽交い絞めのようにされて動かせなかった。
 手の中の薬ビンは、もうふたが落とせる状態にまでなっていた。
 救命の緊急時には何でも片手でやる癖がついているせいか、ビンのふたを片手で回すことくらいはお手の物だった。
 犯人たちの計画にはなかったのか、突きつけられているものはさほどたいしたナイフではなかった。
 唐沢は今から行うことを頭の中で散々シュミレーションしてみた。
 できないことはない、と算段をつける。唯一つの不安は、ビンの口が狭くてうまく中身が出るか、というところだった。
 漆原と目が合う。
 かなり焦った顔をしている。これからやろうとしていることを悟ったようだ。
 思わず笑ってしまう。
 学生時代に遡っても、あれほど焦った顔を見たことがあっただろうかと。
 深呼吸してから手の中のビンを握った。
 ビンから金属製のふたが下に落ち、固いアスファルトの地面にカランと音がした。
 一瞬男が目線を下に向けた。
 その瞬間に唐沢は薬のビンを男の顔に向かってぶちまけた。
 それはやはり狙ったほどに中身がぶちまけられることはなく、どちらかと言うとしょぼい出方ではあったが、その予想しなかった唐沢の動きで男が躊躇したのがわかった。
 中身は医療用のエタノールなので、純度の高いアルコールは少しでも目に入ればかなりの激痛だ。
 もちろん唐沢も下手をするとナイフが動いて首くらいは少し切れるかもしれない、とは思った。
 ただ、幸いなことに医療班の制服が立て襟型の首の詰まったものであり、それ故に唐沢の恐怖心も半減していたこともある。
 それに何より、漆原たちにとってはこんなしょぼい作戦でも何とかしてくれるだろうと思っていた。
 確かに漆原たちはその隙を見逃さなかった。
 あっという間にナイフは取り上げられ、唐沢は無事に救出された。
 立てこもりのほうは男の悲鳴が響いたのを合図にするかのように、動揺した火炎瓶の犯人を別の係員が確保したようだった。

(2013/07/15)


To be continued.