何がきっかけで好きになるのか、何をもって好きとするのか、よくわからなかった中学時代。
好きじゃなくても、嫌いでも、どちらかというと好きでも、恋愛ができなくても、どうやらそれなりのことはできるらしいとわかった高校時代。
ただ、好きになる瞬間というのは、単純で難しいことは何もないのだと気づいた今日この頃。
「坂本君、あの棚の上の箱取ってくれる?」
彼女はよく通る声で俺に声をかける。
俺は身長と体格の良さだけが取り柄で、それほど愛想も良くないし、気の利いたことも話せない。
それでもここの店長はそれがいいとバイトに採用してくれた。
彼女はそんな店長の姪っ子。
その辺の社員よりもこの店に通じていて、実質彼女の指示で動くことも多い。
言われた箱を棚から下ろすと、彼女に手渡す。箱自体はそれほど重くない。
俺を採用するときに店長は一つだけ条件をつけた。
この体格の良さを生かして、彼女のボディガードになってほしいと。
もちろんそれは二つ返事で受けた。
仕事が一緒になる遅い時間、彼女を家まで送り届けるという役目を頼まれたが、むしろそれは喜んでいいことだろう。
決して彼女が変なやからにいつも狙われているわけじゃないが、少なくとも徒歩で帰宅するには十分危ないと言える。
彼女は自分の容姿に無頓着のようだが、男が惹かれるくらいのきれいな容姿を持っている。
同じ大学に入ったばかりだが、まだまだ女子高生と変わらないくらいだ。むしろ今時の女子高生より幼い感じもするくらい。店に来る女子高生は、皆薄く化粧をしてやけに大人っぽい。
ただ、彼女は思ったよりしっかり者だ。
こんな風にてきぱきと働く姿を見て、俺はここのバイトを決めたのだから当然か。
今日はバイトの入りが早いので、少し休憩が入る。夕食代わりに店長が弁当を用意してくれる。これも普通の雑貨屋としては珍しい待遇だ。
彼女はシフト表を見て言った。
「ねえ、ここまであたしといつも一緒の時間帯にシフト入れなくてもいいよ。付き合いだってあるだろうし、時間だってあまり毎日遅くちゃ家の人心配しない?」
「付き合いはそれなりにやってます。一人暮らしなんでバイト代は助かります」
「え、一人暮らしだったんだ」
彼女と一緒に仕事はするが、余分な話は滅多にしない。
仕事中は仕事の会話だけ。
「何かスポーツやってた?」
「…特には」
「そうなんだ。もしかして苦手だったとか?その身体だと勧誘されるでしょ」
「…実家が柔道場で…」
仕方なく口に出す。
実家は柔道を教えている道場なので、当然柔道部には勧誘を受けた。試合も何度か出たことはある。普通に黒帯も持ってるし、段位もある。
ただ…。
「闘争心がなさすぎだと言われました」
いつも親父や兄に言われる。
体格は恵まれたが、この体格を生かして本気でやると、相手が怪我をしかねない。そこまで本気を出せばオリンピックだとまで言われたが、闘うことに執着がない。
だいたい町を歩くだけで因縁をつけられた中高生時代はうんざりだった。ぐれなかっただけありがたいと思ってほしい。
彼女はお茶を飲みながら話題を探している。
俺がほとんど話しかけないのに、何とか場を持たせようと気を遣ってくれるせいだ。
「ご実家は、地方なの?」
「いえ。県内ですが、家から追い出されました」
家からは十分通える。
通えるが、部屋数が少ない。
「…兄夫婦が…」
そう言うと彼女は察した。
兄がこの春に結婚した。
道場はやる気満々の兄が継ぐ。兄嫁は学校の先生で、たとえ兄の経営が失敗しても大丈夫と豪語しているくらいの頼もしい人だ。
なぜなら俺の兄は、これで武道家かとよく言われるくらい能天気な人だからだ。
そして部屋数が少ないということは、俺の部屋は没収され、十分家から通えるのに追い出される羽目に。
その分援助はあるのでありがたい。
そのうち休憩は終わり、再び仕事の時間。
大学の授業はまだそれほど詰まってはいない。
まだ基礎課程で、専門課程になればなるほど忙しくなるとは聞いている。
それまではバイト生活を楽しむ余裕くらいは持ちたい。
帰り道、彼女は申し訳ないという感じで話し出した。
「あの、さ。
伯母ちゃんが何言ったか知らないけれど、いつも送らされて迷惑だったら言ってね。もしも彼女とかいたり、いなくても今後できたら困るだろうし。そんなのいくらなんでも契約違いでしょ」
彼女は多分店長との話を知らなかったのだろう。
「いえ、契約込みです」
そう言うと、「ああ、そう…ええっ!伯母ちゃん何考えてるの」と驚いていた。
だいたいこんな暗い道を女の子一人で歩いて帰るだなんて、常識ある大人なら許すはずがない。
そうでなくても彼女を一人で帰らせるなんて、たいていの男が放っておかないだろうに。先輩の長谷部さんだって、隙あらば彼女を送りたいと思っている。送り狼付きのような気もするが。
「ふ、不満だったらそんな契約放っていいからね」
少し顔を赤くして、彼女は身をさすった。まだ春とは言えど夜は冷える。
「身体が冷えるから」
一向に歩き出そうとしない彼女を促した。
何か上に羽織るものでも渡せば気が利いているんだろうが、何も持っていない。
早く彼女を送り届けるのが一番だろう。
彼女の家まで20分の道のり。
二人で歩く俺たちを人はどう見てるだろう。
店長は俺に下心はないと信じて、疑ってもいないんだろうか。
少なくとも、彼女は安心しているようだ。それだけ俺に関心がないとも言える。
それは少し寂しいのかもしれないが、信頼してくれているのならそれに徹するのも悪くはない。
とりあえず今は。
* * *
最近女子高生がやけに増えた気がする、と店内を見回して思う。
新年度になると、新しく入学した子たちがここを見つけてしばらく入り浸るようになるのだと。
雑貨屋なので、女子高生たちのお気に入りが見つかれば固定客になるし、逆に少しでも評判が悪くなればぴたっと客足が減るという恐ろしい期間だと店長は言った。
店長は独身で、そこそこもういい年だが(彼女の伯母なのだから当然か)、溌剌とした活発な人だ。
自分の好きに仕入先を駆け回り、腕ひとつで二店舗を切り回している。
彼女はどちらかというとその店長にもよく似ている。
その店長が、もうひとつ俺に言ったことがある。
「亜美ちゃんはかわいいでしょ」
「…はあ、まあ」
なんと答えていいのかわからず、あいまいな返事をした。
「でね、ボディガードはいいんだけど、坂本君が送り狼になっても困るわけ。もちろんそこは釘を刺すまでもないと思ってたんだけど」
自分に気のない女の子をどうこうする闘争心も正直あまりない、というのが情けないところなのだが。
「でもね、亜美ちゃんが坂本君を好きになった場合はねぇ…」
そんなこと、あるんだろうか。
「それに坂本君だって他の女の子と付き合ったらまずいでしょうし」
…多分ありませんが。
「最近女子高生に人気の坂本君だから」
「…物珍しいだけだと思います」
実際何かと遊ばれてる気はする。
「でも、あれよね。坂本君って、硬派と見せかけて実は結構遊んでたりしてたんじゃないの」
あれは遊んでたと言えるのか…?
過去のことをあれこれ思い出してみる。
別に硬派を気取ってるわけでもなく、軟派でもなく、普通の高校生活だったと思うんだが。
「亜美ちゃんから好きだと言った場合に限り許します」
店長、それは実質手を出すなということと同じです。
俺は店長との会話を思い出して、彼女を見た。
ありえない、よな、多分。
今日も彼女は裏方から表まで元気に走り回っている。
「理学部なんだって?知らなかった。同じ大学って聞いたのに会わないから」
「見かけたことありましたよ」
「そ、そう?声かけてくれればよかったのに」
最近帰り道になると、彼女から質問攻めにされる。
家のこと、大学のこと、好きなものとか。
代わりに彼女の好みもいろいろ知ることになる。
大学では確かにほとんど会わない。
そもそも学部が離れているのもあるが、基礎課程すらも同じものを取っていない。
同じものでも取って気軽に声でもかけられる環境を作っておくべきだったか。
同じ大学だったことすら知られていなかったと知った今、そんなことまで思う。
「それじゃ、ありがとう。うちのお母さんが、一人暮らしなら今度夕食食べにいらっしゃいって」
「…ありがとうございます」
そこまで信用に値する男なんだろうか、俺は。
「それじゃあね」
彼女が家の中に入っていく。
玄関から消えていくのを見届けて、自分も家路につく。
彼女の家からは徒歩で10分。
思ったより近いことに逆に驚いたくらいだ。
もちろん店長はそれも見越して採用したのかもしれない。
つくづく店長の掌で踊らされているのを感じる。
* * *
今日は午後もほとんど入っていない日なので早めにバイトに行くことになっていた。
店に向かう途中、少しだけめまいがした。
昨日あまり眠れなかったせいだろうかとバスの中で思う。
ところが、店に着くなりふらふらするようになった。
たまたま店長に見つかり、そのまま強引に病院まで連れていかれた。まだ仕事が残っているだろうに。
「何言ってるの。一人暮らしでしょ。倒れても誰も面倒見てくれないわよ」
おっしゃるとおりです。
「坂本君みたいな大きな人が倒れてから病院と言われたって、連れて行けないでしょ」
否定できません。
「しかも今の状態でまともに歩けるの?この辺の病院にも疎いでしょ」
いちいちごもっともです。
「身体が大きいのと健康の度合いは比例しないのね」
…よく言われます。
何がいけないって、この体格だから丈夫だろうとよく言われるが、思ったより病弱なところがスポーツ全般格闘技にも向かない理由だ。
昔ほどではないが、年に一度は高熱も出す。
店長に連れられ、病院に受診して、薬ももらってアパートに帰った。
「店長、今日の帰りは…」
「ああ、心配しないで寝てなさい。今日はあたしが送るから」
「すみません」
部屋に横になると、安心したかのようにぐんぐん熱が上がるのがわかる。
どうしてこんな体なんだか。
熱でうとうとしている間に、昔の夢を見た。
身体だけがどんどん大人になっていく頃、高校一年にはすでに今の体格だった。周りの同級生より一回り頭が突き出た状態だ。
その頃兄は大学生だった。
兄はかなりもてたようで、いつも連れている彼女が違っていた。
何番目の彼女かわからなかったが、ある日同じように熱を出して部屋で寝ていた俺に遊びを持ちかけた。
熱で頭はぼんやりしていたが、持ちかけられる遊びには興味があった。
ほとんど寝たままで全部その女がしてくれて、何だこんなものかと思った気がする。
その後も二度くらいはその女と寝たが、兄とその女の縁が切れたらそれも終わった。
兄は気づいていたようだが、ああいう人なので、まったく気にしていない風だった。それよりも「男は経験豊富な女に最初は遊んでもらうのが一番だ」と俺に言ったくらいだ。
その後も同じように別の女に二度ほど遊ばれた。
年下の、身体だけは大人の高校生というのは、どうやら兄が付き合っていたような女たちにとっては都合のいいおもちゃなわけだ。
おまけに無口で余計なことはしゃべらないし、経験も浅いので自分たちの思い通りにできると思っていたようだ。
何と言うか、俺はそこで理性と本能を学んだ気がする。
兄にもその女たちにもあきれたが、楽しませてもらって文句を言う筋合いはないので、何も言わなかった。
あれ以来無駄に恋愛沙汰に首を突っ込むのを避けている気がする。
兄は散々遊んでいても、相手は割り切りのいい女たちばかりだったせいか大きなトラブルもなく(あったとしても能天気なので傍目にはわからなかったのかも)、無事に真面目でしっかり者の相手を見つけた。もちろんその兄嫁も兄の能天気さは知ってるし、散々遊んでたのも知っているようだ。
あの無頓着だった頃を思い出すと、いたたまれなくなる。
だから、今じゃ好きな女の子ができてもアタックする意気込みに欠ける。
俺にとって彼女は、気がついたら好きになってた唯一の相手かもしれない。
何か理由をつけてここが好きだとか顔が好きだとか、下品だが体がいいとかそういうのはなしに気になっている。
ところが、せいぜいバイト先が一緒になっていることに満足しているとんだ腰抜けで、突進タイプの長谷部さんにむっつりだと言われるんだろう。
明日になったら、何か食べるものを調達しないとな、と思いながらその日は寝入った。
* * *
気がつくと、ピンポーンと音がしていた。
俺を訪ねてくる人がいるんだろうかと訝りつつ、起き上がる。
起き上がった途端にまた目が回る。
朝に起きて手近にあったパンを食べたきりで、あまりものを口にしていない。
おまけに朝には下がったと思った熱が、またぶり返している。
うわ、やばい、と思う間もなく、玄関ドアを目の前にして廊下で座り込む。
勝手にドアノブが回り、聞こえてきた声は、あろうことか彼女だった。
「坂本君、大丈夫?」
何か手に大きなものを持っている。
「…すみません。思ったより動けなくて」
それをぼんやりと見ながら、こんなところで動けなくなってる自分がますます情けなくなった。
「ベッドに戻ったら?」
寝るよりも何かお腹に入れたほうがよさそうだ。
「お腹…空いてて」
そう言って食べ物を目で探していると、彼女は持ってきた袋を見せて言った。
「今すぐおかゆ用意してあげるから」
「ありが…とう…ございます」
思わぬ言葉に感動する。
たとえ店長の命令でもありがたいことには違いない。まさに救世主が現れた気分だ。
「熱は?」
そう言って遠慮なしに彼女の手が額に触れる。
「薬は?」
「朝は飲みました」
ひんやりとした感触が気持ちよかった。
彼女は俺の台所の調理用具を見てから、袋から取り出した鍋を見せた。
「一応持ってきたの」
すぐに食べられるようにとレトルトパックのおかゆを用意してくれて、ベッドに座った俺の目の前に運んでくれた。
俺が食べている間、何か台所で作っているようだった。
自炊はできるのである程度調味料も揃っているのが幸いしたかもしれない。
「後で食べて」
残りのレトルトパックと作ってくれたスープを示した。
彼女がじっと見ているのが気になって、トイレに立った。
「どこ行くの?」
「…トイレに」
仕方がなくそう口にする。
立ち上がると足元がおぼつかないせいか、彼女が華奢な肩を貸してくれた。本当に体重をかけたらつぶれそうだ。
トイレから戻ると、さらに頭がぼんやりする。
「大丈夫?」
「ああ、はい」
そう返事したものの、本格的に眠気がやってきた。
おまけに彼女は近すぎて、いつもは先に考える頭が警告を発している。
「坂本君?」
はっと気がつくと、彼女を抱きしめようと手が動いていた。
馬鹿じゃないか、俺は。
「…すみません」
「ああ、いいの。だってさっきも廊下で力尽きてたくらいだもんね」
拍子抜けするほど彼女は普通だ。
信用されてるってことは、いいことなのか?
熱で馬鹿になってる頭には、そんなことさえもどかしい。
「昨日は…こんなには」
思わず独り言を言ってしまう。
再びベッドに横になってみると、腕まくりをした彼女の腕が白く細く見える。
強く握ったら折れるかもな。
もう本当にこれ以上はやばい気がする。
「小峰さん」
「は、はい」
緊張したような彼女の視線は、俺の腕に向かっている。
よく見ると、あろうことか彼女の腕を握っていた。
「ああ、すみません」
あわてて彼女の腕を離す。
何なんだ、いったい。
やばいどころじゃない。
「…大丈夫なので」
「そう」
ここは一刻も早く彼女に帰ってもらったほうがいいかもしれない。
「じゃあ、お大事に。あ、これ、わたしの携帯番号。また動けなさそうだったら、電話して。すぐ来るから。意外に近かったし、いつでも大丈夫」
苦労せずして彼女の携帯番号をもらってしまった。
こんなラッキーでいいんだろうか。
いや、それでも俺からかけることなんて滅多にないだろう、多分。
彼女は笑っている。
こんな風に見舞いに来てもらえるなんて、思ってもみなかった。
たとえ義務だとしても、彼女は嫌がったそぶりは見せないだろう。そういう人だ。
彼女の視線を見ると、またもや俺の腕は彼女を求めてさまよっていた。そりゃ変な顔をするだろう。何なんだ、この手は。
どうしたんだ、俺の理性。
残りの理性を総動員して、腕を下ろす。
「…ありがとうございました。帰ったほうがいいです」
もうこれ以上彼女の姿は見ていられない、とばかりに目をつぶる。
おとなしく寝たほうが身のためだ。
やがて玄関ドアの音がして、彼女が帰ったのがわかった。
その日見た夢は、ふんわりとしたいい夢だった気がする。
どこか彼女の匂いと似ていた気がする、と気づいたのは、後のことだ。
* * *
それから翌日もバイトを休む羽目になった。
もうそろそろ大丈夫だと言ったら、他の人に移すと迷惑だから来るなと店長に言われた。
今日は彼女のシフトはかなり遅かった気がする。
そうは言っても自分の体調はまだいまいちで、また昨日のようなことがあったら目も当てられない。
それでも気になって仕方がないので、店に電話してみた。
この際長谷部さんでもいいだろうとすら思った。ひどい言い草だが。長谷部さんにしても口だけでひどいことはしない人だ(多分)。
ところが彼女は長谷部さんを先に帰し、店長を待たずして先に帰ったらしい。
電話を切ってすぐにアパートを飛び出した。
さすがに少し走り出すとまだ体調が戻っていないのを感じるが、そんなことも言っていられない。
店からさほど歩いていないところで彼女を見つけたが、その後ろを歩く男も見つけてしまった。
彼女が角を曲がると同時に男も走り出す。
俺も同じようにして反対側から走りだし、男に追いつくと無意識に柔道技をかけていた。
払い腰で男が受身もせずに落ちたせいで、派手な音とともに気絶したようだった。
彼女は男に気がついていたようで、怯えて鞄を振り回している。
「坂本です」
ようやく振り回された鞄が止まった。
「坂本君?」
それでも半信半疑だ。先ほど追いかけていたのが俺だと勘違いされては困る。
「追いかけていたのは別の人です」
それだけは力強く否定する。
男がいつ起き上がるかわからないので、彼女をかばうようにして立つ。
「な、んだ…」
彼女はほっとしたように背中にしがみついてきた。
「こわ、かった」
彼女の声が震えている。
「大丈夫です」
「今日は、いないから」
泣いていたらどうしようと後ろ向きのままうろたえる。
「間に合って、よかった」
「うん、ありがとう」
彼女はしがみついたままだ。
「警察に電話しましょう」
「…うん」
何だかやばい気がするので離れてもらうことにしようと、振り向いて彼女の肩に手をかけた。
それなのに彼女は俺の手に触れる。
「まだ熱あるの?」
「…ようやく下がってきたんですが。その、バイト休んですみません」
「今日は倒れない?」
「…多分」
倒れないとは思うが、まだあまり彼女に近づくのはよくない気がする。
「多分?」
「ちょっとまだ…」
「まだ、何?具合悪いなら先に帰っていいよ」
先に帰りたいのは山々だが、この男も警察もすべてを彼女の元に放って帰れるわけがない。
「ねぇ、もしかしてわざわざ送りに来てくれたの?」
「店に電話したら、出た後だって言われて」
「じゃあ、すぐに声かけてくれればよかったのに」
「…そのつもりはあったんですが」
「あの男がいたから?」
彼女は男のほうをチラッと見た。
彼女の体はまだ震えている。
電話、電話、と意識して警察に電話をする。
厄介ごとは嫌だったが、放っておいてもろくなことはないだろう。
彼女は俺が電話を終えてもまだそばにいた。
頭がぐらぐらする。
無理して走ったせいだろうか。それとも彼女にしがみつかれているせいだろうか。
彼女が不意に顔を上げた。
しまったと思ったときには遅かった。
彼女と目が合い、その瞬間にふらふらと俺の理性が飛んでいく。
彼女の吐息を感じてはっと目を開けると、顔が間近だった。おまけにこの手は何だ。彼女の顔に添えられて、今まさに彼女に口付けるところだった。
告白もせずにいきなり手を出すか、俺は。
彼女もこんなときだし、ちょっと流されてみたくなったんじゃないか?
そんなむなしい言い訳を考えて手を離した。
彼女が少し哀しそうな顔をしたのは、気のせい、だよな、多分。
理性、理性、俺の理性、戻って来い。
それにもうそろそろ警察が到着する頃だ。
彼女にする言い訳も思いつかないまま、警察の登場によって急に慌しくなり、近所を騒がせたまま警察へ行くことになった。
俺がでかいからといって、俺を犯人扱いするのはやめてくれ…。
少なくともそこに寝転がってる男の存在にようやく気づいてくれるまで、俺は思いっきり犯人扱いだった。
* * *
にわか英雄となった俺だったが、店長から特別手当を出すと言われたのが一番うれしかったかもしれない。
彼女の親からもとりあえず好印象をもらえてほっとする。きっと今まで得体の知れない大柄なボディガード扱いだったに違いない。
肝心な彼女とは二日ぶりだった。
風邪も完全によくなっていたし、落ち着いて仕事もできそうだった。
ところが彼女はどこかよそよそしい。
…思い当たる節はあれ、だろう。
間違いなくあの理性を吹っ飛ばしたキス未遂に違いない。
ボディガードどころじゃないだろう。自業自得。
それでも彼女を一人で帰らせるのは忍びない。あんなことがあった後だし。
周りで女子高生たちが何か騒いでいたが、店のことには関係なさそうだったので、適当に「仕事中なので」と抜け出した。
彼女がこちらを見ていたのを知っていたので、そのまま足早に通り過ぎながら「ちゃんと送りますから」と伝えた。
そうでもしないと避けて先に帰ってしまいそうだったから。
帰りは帰りで、先に着替えて店の外で待つことにした。
すぐに彼女は出てきて、俺の顔をじっと見た。
割と静かな住宅街にあるこの店は、昼間は学生や主婦がよく通るが、その分夜になると人通りが絶えるのが難点だ。
もちろんそんなに遅くまで営業しているわけではないのだが。
「あのね」
「はい」
彼女は俺をまっすぐ見上げる。
彼女の身長は低くもないが高くもない。平均的な身長だというのに、俺といるだけで小さく見える。
あまりにまっすぐ見据えられるので、何もかも降参したい気分だ。
それなりに整った小さな顔。
色白で、化粧っ気のない頬は紅潮している。柔らかそうなのにきゅっとした意思のある唇。
そうか、俺はやっぱりあまり彼女の顔をよく見ていなかったんだなと思う。
ところがその柔らかそうな唇からは思いがけない言葉が飛び出した。
「わたし、多分坂本君が好きなんだと思う」
「それは」
店長、どうしましょう。先に手を出そうとした罰でしょうか。
思わずそんなことを思う。
しかも多分、って何ですか。
「ああいう状況だから流されたんじゃないかって言うんでしょ。そんなこと言いたそうな顔してる」
彼女に先に言われて何も言えない。
よくわかるなぁと感心すらする。
「じゃあ、坂本君は?わたしのことは別にして、坂本君はどう思ってるの?」
そんなの決まってる。決まってるが…。
「あの日とその前の日、俺は熱を出していましたよね」
「…うん」
説明するべきか、言い訳するべきか。
「ちょっと理性が…」
「…理性が…?」
真面目に尋ねられて、こんな説明をしようとしている自分が馬鹿に思えてきた。
店長、すみません、正直に言っていいですか。
「前から好きだったんです」
「前から…?」
ストーカー並に気持ち悪いやつだと思われませんように。
「受験のときに」
そもそも最初に彼女を見かけたのは、今の大学の入試のときだった。
「店で売ってるシャープペンを落としましたよね」
「拾ってくれた?」
「落ちてたって言うと縁起が悪いから、声をかけられなくて」
目の前で落ちましたよ、と声をかければよかったのかもしれないが、受験生に「落ちましたよ」ってどうだよ、と散々悩んでいるうちに彼女の姿を見失ったのだ。
「そこにあったそうですよって言われたの」
その後、彼女の手に戻ったと聞いて、うれしかったのだ。
「坂本君だったんだ。メガネかけた人って聞いていたから」
「授業のときはメガネしてるんです。
三月にクラスのくじ引きで当たって、どうしてもお礼のプレゼントを買いに行かなくちゃいけなくて、店に行ったんです。そのときに同じシャープペンがあると思って見ていたら、受験の時の子がバイトしてるのを知りました。
楽しそうに働いていたので…。
バイトを募集していたので、ついでに申し込んでみました」
「そうだったんだ」
この図体で雑貨屋なんてものに縁がなく、クラスのくじ引きで一緒に当たった女の子のお勧めで来たのだった。
ひょいと見た文具の中に懐かしくも同じシャープペンを見つけるのと、彼女の声につられてその姿を見るのは運命的だと勝手に勘違いしてたかもしれない。
それでも彼女が溌剌と働いていたのが印象的だった。おまけに入口にはちょうどバイト募集の張り紙。春休みに入っていて暇だったし、採用されるかどうかはともかくとして、申し込んでみるのも悪くはないと、その場にいた店長に申し出たんだった。
うまくいけば彼女と同じように楽しく働けるかもしれないと。
彼女の目は、なぜいままで黙っていたのかという風にじっと見ている。
「いきなり言われても困るでしょ」
「そうかも」
あっさり彼女は引き下がった。
でも彼女は結構手ごわい。わかってはいたことだが。
「こんな急に言うつもりじゃなかったんですが」
思わずため息混じりに言ってしまった。
こんなストーカー張りのエピソード披露と一緒の告白なんかじゃなくて。
「でもそれと熱と何の関係が?」
うっ、と痛いところを忘れずに突いてくる。さすが彼女です。
言わなきゃだめですかね。
「好きな女の子が部屋にきたら、普通の男はよからぬ事を考えるもんです」
「そうだろうけど、いきなりそんなことするような人じゃないって坂本君信じてたし、わたしのこと好きだなんて思ってなかったし」
ため息をつきたくなる。男を甘く見ちゃいけません。
「だから、熱で理性が…」
吹っ飛んだ、とは口にできなかった。
何でこんな言い訳を。
「でもそれって、わたしが好きだから理性が飛びかけたってことよね」
冷や汗が出そうだ。
「そこまではっきり言われると何ですが、普段はそこまで考えているわけじゃないです」
「坂本君って、長谷部さんみたいなこうぎらぎらしたものがないよね。それって、普段はわたしがそばにいても手を出すことはないってことなのかな」
普通の男でも、いくらなんでもところ構わずいつも手を出そうなんて思ってる人は少ないと思う。もちろん少しくらいはいるかもしれないが。長谷部さんのは多分フリです、フリ。
俺だって、決して手を出さないという意味じゃない。
「小峰さん」
「はい?」
彼女はにっこりと微笑み返す。
…時々考えるのをやめてみようかと思うことがある。
「割と理性あるほうなんですが」
「そうみたいね」
さらっと彼女は返す。
わかっていて言ってるのだろうか。
「煽ると後悔しますよ」
一応警告。
「わたし、煽ってるの?」
十分煽ってます。
「後悔、してみようかな」
彼女はそう言って一歩近づく。彼女の髪が跳ねた。
もう捕らえられる距離範囲だ。
仕方がない。普段抑えてる男ほどたがをはずすとどうなるか、身をもって知ってもらうことにしよう。
彼女の体を捕まえて抱きしめると、すっぽりと胸に収まった。
ああ、そうか、あの夢の中でかいだ匂いだ、と気づいた。
彼女の顔を仰向かせると、少し息苦しいくらいにキスをする。
唇だけでは物足りなくなって、彼女の唇が開いたところに舌を滑り込ませる。
嫌がったらやめる。それくらいの理性はまだある。
ところが彼女は抵抗するどころかどんどん力が抜けていき、されるがままだ。
彼女から漏れる吐息が最後の理性を揺らす。
これ以上は、俺がやばい。
熱が出ていなくても、これはさすがにやばいだろう。
ここまで彼女がうっとりとするとは思わなくて、惜しいと思いつつも唇を離した。
はぁと色っぽいため息をついて、彼女はもたれている。
「歩ける?」
そう聞くと、首を振った。やりすぎたか。
「…道端ではもうしないことにする」
彼女がそうつぶやいたので、俺は少し笑った。
道端以外ならオッケーが出たということかも。
「そうしてください」
こんな道端でいちいち理性と闘わせるのも楽じゃない。
「あのね、流されたんじゃなくて、少しずつ好きになってたの。だから、誤解しないでね」
「…はい」
彼女の言葉をありがたく受け取る。
実は流されていたのかも、と言われたら、当分立ち直れないところだった。
ちゃんと最後までフォローしてくれるその気遣い。
「そんなあなただから、好きになったんです」
抱きしめた彼女の耳元でそうささやいた。
彼女が一向に帰ろうと言わないので心配になる。
「今度は熱のないときに部屋に来てください」
俺なりに精一杯のアプローチだ。
「今日は?」
彼女は名残惜しそうな顔で言った。
そんなかわいい顔して言わないでほしい。今すぐ連れて帰りたくなる。
ちょっと考えた挙句、
「…店長に顔向けできないのでだめです」
と言ったら、彼女はやっと自分で立ち上がって大笑いした。
いや、俺もその言い訳はどうかと思うが、それ以外に拒む理由がない。
このまま連れて帰るのは至福のひと時だろうが、翌日に店長の顔をまともに見られない気がするへたれなんだから仕方がない。
店長、本当に手を出してよかったんでしょうか。
彼女と手をつないで帰りながら、どうやって報告したものかと思案した。
彼女はそんな俺を面白そうに見ていた。
(2010/01/29)
To be continued.