やけに肌寒く感じた。
夜具に包まっていたはずなのだが、なにやら身体の下は冷たかった。
颯淳はぎょっとして目が覚めた。
なぜこんなところで寝ているのだろう。
隣を見ると、同じように呆然とした姉がいた。
しかし、どう考えても家の中ではありえなかった。
うっそうとした木が茂る山の中、なぜか、姉と二人寝かされていた。
身体を起こすと頭がくらくらした。何か薬でも盛られたような不快な気分だった。
姉は顔色を失って震えていた。気分でも悪いのだろうか。
それよりも、父母はどこへ行ったのだろう。
自分たちの知らない間に村が消えてしまったのだろうか。
「…捨てられたのよ」
姉の言葉にすぐには反応できなかった。
…ありえない。
どこの親がこんな年にもなった娘たちを捨てると言うのだ。
「あの、布告のせいよ」
…布告?
颯淳はしっとりとした夜の気配に頭を振り払い、はっきりさせようとした。
「寝る前に食べたあの食事…」
そうだった。
父母とも最近になく楽しげに振る舞い、颯淳と姉に食事を勧めた。
もちろん食卓に並んだものはいつもと変わりはなかったが、少なくともまずくはなかった。
そう、いつもより少し濃い目の味付けに、颯淳は少しだけ違和感を感じたものだ。
「だって、姉さんは、あと少しで田畑がもらえるのに」
「関係ないわよ」
姉は震えながら颯淳に寄り添う。
「布告を聞いたでしょう?あのおろかな女王が出したと言う布告を!」
颯淳が物心ついてからいったいどれくらい王が替わったのかすでに覚えていない。
今の王は、女。
それも、多分極めつけ愚かな女王。
先日、布告が出された。
『国に女の留まることを許さぬ。
国外に退去し、許可なく国に立ち入ることを禁ず』
女は国を出て行けと言うのだ。
そんなことで父母から捨てられたのだろうか。
食うに食えない中でも今まで何とかやってきたと思っていた。
いや、わかっていたはずだ。
女たちは少しずつ村から消えていた。もっと豊かさを求めて、巧へ、雁へ。
母は、記憶をなくしてからも姉妹を育ててくれた。なんとなく腫れ物にでも触るような感じではあったが。
父は、そんな母の唯一の支えだった。
今思えば、父がいてよかったと思う。
颯淳と姉では母の記憶を取り戻すには及ばず、ただ、なんとなく一緒にいた家族。
それでも、姉と颯淳にとっては一緒に暮らした家であった。
それすらも簡単になくなってしまった。
「これから、どうしたら…」
「慶から出る」
颯淳は冷たくそう答えた。
もう、いい。
誰も頼らない。
信用しない。
「あんたは、すぐに黙り込んでいたわね」
姉はそうつぶやいた。
「洪水に流された後も何も言わなかった」
3年もの間、何もしゃべらなかった。…母に会うまでは。
「そう、その後も結局、必要以外はほとんど口も開かなくて…」
村へ帰ってからもほとんどしゃべることはなかった。
しゃべらなくても生活が出来てしまうことを知っていたので、無駄にしゃべる必要を感じなかっただけだった。
姉が何を言いたいのかよくわからなかった。
しゃべらない颯淳を責めているわけではなさそうだった。
「とりあえず野木を探しましょう。このままここにいたのでは妖魔に襲われてしまうわ」
姉の提案で、颯淳は道端から見える範囲で野木を探した。
野木のあるところでは誰も、そう妖魔でさえ狩りをしない。
姉妹で何かをするのもこれが最後かもしれない。
そんな気がした。
颯淳と姉はまだ来ぬ朝を無事に迎えるために野木を探した。
どれくらい進んだろうか。
月も細く、あまり光のない夜だった。
山の中、道沿いに野木があるわけはなく、仕方なく道から少しずつ外れながら探す。
颯淳が木の枝を踏む音に混じって、何かを聞いた。
「…何か、いる」
姉は真っ青になって颯淳を振り返った。
颯淳は懐を探り、最近いつも持ち歩いていた短刀を構える。
「…何でそんなもの持ってるの」
颯淳の準備のよさに姉が驚く。
父母は懐の短刀に気づかなかったのか、それとも慈悲で残してくれたのか定かではなかったが、とにかく武器はこれしかない。
どちらにしても…。
颯淳はあのまま家にいるつもりなどなかった。
姉は、颯淳と背中合わせになり、周りを伺う。
悲鳴のような泣き声とともに黒い妖魔が現れた。
それほど大きくない。しかも1匹だけだ。
妖魔と向き合うのは初めてだったが、今は自分しか頼れるものがないとなると、案外落ち着いて様子を伺うことが出来た。
妖魔は颯淳を襲おうと身構えている。
妖魔がじりじりと詰め寄り、颯淳もじりじりと後ずさるが、決して目はそらさなかった。
一声泣いて妖魔は跳んだ。爪を立てようと前脚が振り下ろされる。
颯淳はしゃがみながら短刀を両手で構え、妖魔の体に短刀を差し込む。しかし、初めてのこと、最後の一振りが避けきれない。
爪は颯淳の服と皮膚を浅く引っ掛けながら、妖魔は着地した。
すぐに体勢を整えるが、今の攻撃だけですでに息が荒い。
短刀で一突きしたものの、まだ妖魔の力は衰えた様子はない。
先ほどの一撃で颯淳の力をはかったかのように、妖魔はすぐに再び襲ってきた。
今度は確実に颯淳の頭、それものどを狙ってきていた。
思い切って颯淳は前に出て、妖魔の頭に短刀を向けた。
あたりに血しぶきが舞う。
颯淳はひざを付いて息を整える。
颯淳の背中に一筋の傷。
しかし、妖魔はそれ以上にひどい血溜まりの中に倒れていた。
…倒した。
颯淳は今になって震える手を組み合わせて、うっすらと涙を浮かべた。
「颯淳!!」
姉は必死な顔で颯淳の肩をつかむ。
そして、颯淳の背中と肩からにじみ出る血を自分の服の袖でぬぐって手当てをしてくれた。
「明るくなったら薬草も見つかるわ」
そう泣きながらつぶやいて、立ち上がった。
「どうしてこんな目にあわなくてはいけないのかしら」
泣きながら姉は歩いた。
妖魔の体から抜き取った短刀の血をぬぐい、血の匂いにつられて他の妖魔が来ないうちに歩き出したのだ。
しばらく歩いて、ようやく野木を見つけた。
その下に姉ともぐりこんで、颯淳は眠り込んだ。
強くなりたい…。
そう思いながら。
夜が明けて、颯淳は身体のあちこちが痛むのに気付いた。
当然だろう。
薬を盛られ、山中を歩き、妖魔と戦ったのだ。
背中の傷はとりわけ痛んだが、姉が探し出してくれた薬草を当てると、少し和らいだようだった。
「驚いた、本当に。でも、颯淳がいなかったら死んでいたわね」
姉は続けて肩の傷も手当してくれた。
「颯淳、とりあえず街まで出ることが出来たら…」
その続きを姉は口に出せなかった。
多分そのまま分かれることになるだろう。
なんとなく昨夜の出来事で、姉と颯淳の行く道は分かれてしまったようだ。
姉は多分このまま巧国へ出るのだろう。雁国へ出るにはあまりにも遠い。
颯淳は、なんとなく、花永に会ってみたいと思った。
しかし、ずいぶん前に手紙も途絶えてから、連絡は取っていない。
しかも、年頃のはずだった花永も誰かと所帯を持ったかもしれない。
いや、颯淳たちのように慶国を追われることになっているかもしれない。
とりあえず、村に行ってみよう。
長く暮らした姉よりも、花永のほうが懐かしく思うことに一抹の後ろめたさはあった。
姉と目を合わせないまま、颯淳は歩き続けた。
街に着いたところで、姉は周りを見渡しながらそっとため息をついた。
「慶は…本当に貧しいのね」
街を歩くどの顔も疲労に満ちていた。
閑散とした街には活気がなく、道だけがやけに広く感じられる。
これならまだ村のほうが人通りが多いような気もする。
颯淳はとりあえず何か仕事を探さねば、と考えた。
姉は何を考えているのだろう。
「私は、隣の街まで行ってみるわ…」
それでは、ここで別れるのか。
颯淳は姉を見つめた。
「あなたなら、何か見つけられるかもしれないわね」
姉はそう微笑んだ。
年頃なのに、着飾ることもせず過ごしてきた姉。
「颯淳、私は…父と母には感謝している。でも、捨てられたことは、どうしても…」
許せないの…と消えそうな声でつぶやいた。
それは颯淳とて同じだった。
多分同じような境遇の話などそこらじゅうにあるに違いない。
実の両親に売られる娘も多いだろう。
売ることもできず、殺すことも出来ず、両親は悩んだに違いない。
それは両親の愛情のせいかもしれないが、同時に恨めしくもあった。
一言、言ってさえくれれば、そっと村を抜け出したのに。
あの時、母に連れられて逃げることしか出来なかった子供ではない。
まだ成人ではないが、両親と離れて寂しいと泣く子供でもない。
どうせならまだ売られたほうが両親の役に立てたと喜べたのかもしれない。
どれも選べずにただ捨てられるのは、つらかったのだ。
そばを通り抜ける馬車が砂埃を巻き上げる。
「閉門前に隣街に着きたいから」
姉は別れの言葉を言って歩き出した。
颯淳は黙って見送った。
もっと気の聞いた言葉をかければよかった。
姉の姿が小さくなるのを見て、颯淳はそう思った。