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十二国記:颯淳の物語

第五章




其の一

颯淳たちは、海客が走っていったという方角に向けて再び旅立つことになった。
もちろんすぐに旅立つには準備も必要なので、それぞれ必要なものを買い物することになった。
資金も足りなくなるので、少しばかり商売を行う。粗末な小屋を貸してもらい、そこにむしろを敷いて作業を行う。
小屋の外では壁白が商品を勧めている。
思いっきり怪しい店だが、表通りより安いせいなのか、それなりに需要はあるようだった。もちろん無許可なので、評判になる前に旅立つ寸法だ。
彩世は武器の修理。
颯淳と真騎は薬と装飾品の作成。

「いつまで追いかければいいのかしらね」

ひどく傷んだ武器を研ぎながら、彩世は言った。

「あの海客…、なんだか違う気がする」
「何が?」

真騎は髪飾りを作っていた。
かなり行動は無頓着だが、作るものは見た目より細工が細かい。

「何って、言われると…」

颯淳は困って、薬を作る手を止めた。
そこへ壁白が小屋の中をのぞきに来た。

「真騎、髪飾り、すぐ仕上がるか?」
「おう、これで終わりだ。なあ、壁白、あの海客、何か違ったか?」
「…何って…」
「いや、颯淳が…」
「…ああ」
「本当に違うのか?」
「そうだな。あの短い髪のほうの言葉はさっぱりわからなかったんだが、長い髪のほうは…言葉がわかるみたいだったぞ」
「あら、おかしいわね」

彩世は仕上がった武器を壁白に渡しながら首をかしげた。

「私が今まで聞いた話では、ほとんどの海客はこちらの言葉がわからないし、話せないということだったけれど」
「ああ、俺もそう聞いている。例え胎果といえど、例外はない」

では、やはり何かが違うのだ、あの海客は。
颯淳は、あの翠の瞳を思い出していた。
他にも翠の瞳の者もいるにはいたが、何故か違う気がしたのだ。

「そういう点で見れば、颯淳の考えは間違っていないと言うことだ」

壁白は外の様子が気になるのか、仕上がったものを持って小屋の外へ出て行った。
外では、壁白が品物を渡しているらしい声。
それを終えると再び小屋に入ってきた。

「明日一番に出るぞ」
「…気付かれた?」

彩世の心配そうな声。

「いや。しかし、そろそろ表通りの連中に気付かれる」
「海客も気になるし、って?」

真騎は颯淳の作り終えた薬を袋に詰めながら言った。
壁白はため息をついた。

「いまさらだが、少々苦痛だな」
「そんなこと!」

颯淳は壁白をにらんで声を荒げた。

「最初からわかっていたはず」
「…すまん」
「それも大事だけど、よく考えてみて?」

彩世が斧を磨きながら颯淳をなだめるように言った。

「いくら国が傾きかけていようと、この街中にバフクが現れたこと」

バフクなど現れること自体不思議だった。
昼間、しかも、突然現れたバフク。
言葉を理解している海客。しかも、海客は一人ではなかった。
いったい自分たちは何に巻き込まれているのだろう。
このまま塙麟の言うとおりに海客を追い続けるのか。
もし海客を見つけても、とても捕らえることなど出来そうになかった。
あの剣使いは、下手をするとこちらが斬られかねない。
荒々しくて、剣に慣れていない様子でありながら、一瞬にして発した気の鋭さ。そして素早い身のこなし。
他の三人も同じように考えていたのか、それぞれ手元の冬器を見つめている。
狭い小屋の中でしばし重苦しい空気がよどんだ。
…が、それはすぐに真騎の腹の音で破られた。

「…食事に行きましょう」

彩世は笑って立ち上がった。
他の三人も笑いながら彩世の提案に乗って立ち上がった。



其の二

街には日暮れが近づいていた。じきに暗くなるだろう。
慶よりも活気のある街中、喧騒の中にはさまざまな店があった。
もちろん王宮があるような大きな都市ではないので、にぎやかな通りもごく一部である。
河西の先、拓丘のほうがもっとにぎやかだという。
慶は貧しかった。
他国へ来て初めてそう実感する。
これが雁国ならどれほどのものだろう。
颯淳たちはもう歩き慣れた緑の柱の通りを過ぎていく。
その先に安くてほどほどの料理を出す宿屋があった。

「また、いらしてください」

不意に聞こえた少しか細い声に聞き覚えがあった。
通り過ぎた柱の向こうからわずかに聞こえた声に、思わず颯淳は振り向いた。振り向かなければよかったと思ったが、それでも好奇心に勝てなかっただろう。
緑の柱の陰から見えた姿は、颯淳の姉だった。
慶にいるときよりもかなり小奇麗に着飾り、紅を差し、つやのある肌をしていた。
見間違えだと思いたかったが、やはり姉であることは間違いなさそうだった。
姉に見つかる前にとっさに彩世の陰に隠れた。
姉は颯淳には気付かず、一つため息をつくと店の中に戻っていった。
颯淳は談笑している三人の前に立ちふさがる格好になり、店の入り口を見つめていた。
周りの騒がしさが耳に入らないほど、自分でも驚きを隠せなかった。
いや、半分わかっていたはずではないだろうか。姉が不自由なく暮らしていくためにはいずれこうなるかもしれないと。

「颯淳様?」

颯淳の様子に気がついた彩世が顔をのぞく。

「…なんでもない」

努めて平静さを装い、颯淳はそう答えた。
もちろんそれが成功したかといえばそうでもないのだが、彩世はそれ以上何も聞かなかった。
宿屋の下の食堂で、何も考えずに颯淳は食事を流し込んだ。
そんな様子に他の三人が気付かぬわけはなかった。それでもあえて、どうしたとは聞かない。
今の颯淳にはそれがありがたかった。
食事が済んだ後、壁白は立ち上がると、驚くことを言った。

「…今日は他に泊まるから」
「え、他に…?」

颯淳はようやく壁白の言葉に気付き、慌ててうなずいた。

「あ、そう。ま、がんばって」

壁白は颯淳の言葉に顔をしかめると、食事代を置いて宿屋を出て行った。
不思議なことに、彩世も真騎も何も言わなかった。
ただ二人、顔を見合わせてうなずいていた。
その日は明日に備えてそのままその宿屋に泊まることにした。
安宿なので、同じ房間の真騎は衝立の向こうだ。
そろそろ寝支度をと思っていたところに真騎が声をかけた。

「颯淳はあれから家族と暮らしたんだろう?」

今その話題を出されるとは思わなかった颯淳は、手入れしていた弩を取り落とした。

「…真騎様」

彩世の怒りを含んだ声に真騎は衝立から顔を出す。

「そう怒るなよ、彩世」

着替えていた彩世は、何も言わずに傍にあった枕を真騎に投げつけた。

「…す、すまん。わざとじゃない。…誰も見たくは…。
…と、じょ、冗談だ。落ち着け、彩世。斧を振りかざすな!」
「…お客様…、何かありましたか?」

派手な音を立てた枕と真騎のうろたえた声に何事かと宿の者が扉越しに声をかけた。
彩世は扉を開けてにっこり微笑む。

「いいえ。少し羽虫に驚いただけですわ」
「そうですか。それでは、おやすみなさいませ」
「ありがとう」

真騎は心底ほっと息をついた。
颯淳は黙ってその様子を見ていたが、意を決したように口を開いた。

「私と姉は、親に捨てられたんだ」
「…捨て…」

真騎は何か言おうとして、口をつぐんだ。

「うん。珍しくないかもしれないけど、少なくとも、あの布告さえなかったら捨てられなかったかもしれないとは思ってる」
「そうかもね…」

彩世はうなずいた。

「私はいずれ家を出るつもりだったから、いいんだ。おとなしく村にいて所帯を持つつもりはなかったし、商売をしたいわけでもなかったから。
…ただ、姉は…。姉は、そうじゃなかったから」

姉は普通に暮らすことを望んでいたのだ。
今からでもそれは可能だけど、何かが違ってしまったのは間違いない。
淡々と両親や姉のことを言えた自分に驚いた。
何か、もうすでに遠い昔のことのような気もする。

「でも、ちゃんと生き残ったんだから、恵まれてるよな、俺たち」
「うん」

確か真騎と壁白の両親は病で亡くなったはずだ。
彩世の母も亡くなって、父の再婚で共に隣村に移って、その父は妖魔に殺されたとか…。
そう、親が生きているのは颯淳だけだった。
死んでしまって、捨てられずに済んだと思うのか、生きていてよかったと思うのか。
それはどちらでもいいことだけど、少なくとも自分たちは生きている。
姉もそう思っていてくれたら…と、颯淳は思った。
そう思わせてくれる人がいればいいと願わずにはいられなかった。



其の三

翌朝早く三人は宿を出た。
まだ朝靄の立ちこめる中を通りに出る。
街の門に行くと、同じような人影があった。

「壁白、おはよう」

真騎が意味ありげに笑って挨拶する。

「…行くか」

壁白の言葉に三人はうなずいて歩き出した。
朝早く出立しようと言う旅人もちらほらいる中、壁白は颯淳の後ろに付いて低く言った。

「颯淳の旅の無事を祈っている。どこにいても私はあなたの姉だから。私も自分で選んだことだから、気にしないで、と」

颯淳はうつむいていた顔を上げて、壁白を振り返った。

「…姉さんが…?」
「さあな」
「だって、緑の柱…」
「…誰が緑の柱に泊まるって?」
「…いや、まあ、言ってなかったけど」

颯淳は前に向き直って、歩き続ける。

「捜すのに時間かかって、寝てないんだからな」
「…こそこそしないで、聞けばいいのに」

そうつぶやくと、壁白に聞こえたらしく、後ろから怒鳴る。

「お前が言いたくなさそうだったからだろうが!」
「壁白って、肝心なところで要領悪いからなぁ」

前を歩く真騎はそう言ってため息をつく。

「俺がいないと買い物もふっかけられても気付かないし」
「うるさい。俺がいないと口で失敗するのはお前だ」

壁白と真騎の言い合いを聞きながら、颯淳は笑った。
笑いながら、もう見えなくなった門を振り返ってしばし姉を思った。途端に胸が詰まって、それ以上笑えなかった。

「…壁白、ありがとう」

精一杯礼を言ったところ、壁白は胸を張るようにして言った。

「今度は俺に酒をおごれよ。金もないのに苦労したんだからな」
「壁白様はそれさえなければ、いい人ね、で済むのに。本当に、謙虚と言う言葉を知らないから」
「彩世、その言葉、そっくりそのままお前に返してやる」
「ああ、はい、はい。壁白も彩世もその辺にしておけよ」
「女の着替えをのぞくような方に言われたくありません」
「…な、あれは、ただの偶然だ!」
「真騎、こいつらをのぞくようじゃお前も焼きが回ったな」
「…壁白様…、その身体で斧の切れ味、試してみます?」

おもむろに彩世は背中から斧を下ろして構えると、振り下ろした。
林の奥から現れたウサギに似た小さなヒソは、彩世の斧で一撃だった。

「これ、今夜の夕食にしましょう」

そう言ってうれしそうに解体する。

「本気で殺されるかと思った…」

壁白は青ざめてほっと胸をなでおろした。

「いや、それよりも、また食う気だぜ、妖魔。普通、食わねえだろ」
「いや、あいつは普通じゃないからな」
「それよりも、文句言わずに食う颯淳も普通じゃねえよ」
「…しかも、腹下らないしな」

ぼそぼそと話す真騎と壁白に颯淳は声をかける。

「…聞こえてるんだけど」
「お、おう、今日は晴れてよかったなぁ、壁白」
「そ、そうだな」

とりあえず彩世には聞こえなかったようだった。
そんな風に道行は続く。
同じように山を登り、野木の下で夜を明かし、行きよりは早く午寮に着けそうだった。
それにしても妖魔が多い。
巧国は傾いている。
そう思ってはいたが、その予想は再び塙麟を見たときに確信に変わった。
もともと線の細いほっそりした麒麟だと思っていたが、今度は本当に具合が悪そうだった。
悲しげな顔をして現れた。
それは、見るものを痛々しくさせる表情で、颯淳たちに告げた。

「海客は…午寮に…」
「そこまでしてあの海客を捕まえなければならないの?!」

颯淳は叫んだ。

「主上の命令です…」

麒麟は王の命に逆らうことはできないのだろう。
それは悲しくもあり、同時にひどく怠惰な気がした。
慈悲深い麒麟が、なぜ海客を追い立てるのだろう。なぜ止めないのだろう、と。
主上の命は絶対なのか。
颯淳たちにはわからなかった。
今まで麒麟の習性について深く習うことはなかった。
麒麟と接する機会など、生涯あるものではないと思っていた。
塙麟の頭を覆う布が垂れ下がったそのとき、颯淳たちは言い様のない姿を見て取った。

「…何、あれ」

彩世が、後ずさった。
その白い首筋に浮かぶまだらな染み。よく見れば、首筋だけではなく、手の甲にも。
悲しげな表情を見せていたのは、何も表情だけではなかったのだ。
美しかったその顔は、まるで一気に歳をとったように衰えていた。
もちろん皺があるわけではないのだが、明らかに病的な様子に颯淳たちは顔をこわばらせた。
この麒麟は、何かおかしい。

「失道か…?」

壁白はそうつぶやいた。
またもや何かに呼ばれるように塙麟が消え去った後、颯淳たちはしばし立ち尽くした。

「…失道ってことは」

彩世は壁白を見る。

「…巧国は、終わりだな」

壁白はうなずいた。

「あれが、失道?」

王が道を誤ると現れる麒麟の病だという。
颯淳は呆然と繰り返した。

「失道、なの…」

それではこの国も荒れる。
王が死んで、妖魔が増えて…。
そして姉は…、また国を追われるのだろうか。
おそらくこの国の民はまだ知らない。あれほどに塙麟が病んでいることを。王が道を失いかけていることを。
塙麟を苦しめたのは、海客のせいなのだろうか。
執拗に追う海客は、きっと何か重要なことであるに違いない。
それも、国を傾けるような。

「急ごう」

思わず皆を促す。
海客を捕らえるよりも、なぜか守らなければならないと感じた。
あの海客を塙王に引き渡してはいけない。

「私、海客を塙王から守ったほうがいいような気がして」
「そうだな…」

壁白もうなずく。

「でも、それで俺たちはどうなるんだ?」
「真騎様、別に本当に捕らえるつもりでもなかったでしょう?」
「そうだけど…いや、少しは…」
「まあ、そこが真騎様の馬鹿正直なところよね」
「…それ、ほめてるのか?」
「あら、ほめてるわよ。兄弟揃って昔から馬鹿正直だってことはね」

彩世はにっこりと微笑んだ。
塙麟の示した午寮まで、あと少しだった。



其の四

あれから二日で午寮にたどり着いた。
夕刻も迫り、日が傾きかけていた。
早くしないと午寮の門が閉まる時刻だった。
颯淳たちもさすがに野宿も疲れ、今夜こそは宿に泊まりたかった。
自然と足を早め、門を目指す。
人の群れに押されるようにして空を見上げたそのとき、大きな鳥の影を認めた。

「…まさか」

彩世は冬器に手をかけながら信じられないと言う顔をした。
同じように空を見上げた誰かが叫んだ。

「コチョウだ!!」

それも、一羽ではなかった。
なぜ、こんなところにコチョウが?
その大きな翼は風をはらみ、あっという間に近づいてくる。
颯淳は急いで足場を確保しようと人ごみを掻き分ける。
しかし、人の波は門へと押し寄せ、迫り来るコチョウの速さに人はあまりに遅い。
門が閉まる。
人々は叫びを上げながら逃げ惑う。
子ども、女、怒声、泣き声。
誰もが妖魔から逃げ出したくて、右往左往する。
街道は押し合う人でいっぱいだった。
颯淳は何とか人波を抜け出した。
少し離れたところに真騎。
同じように弩を構える。届きさえすれば、射落とせるだろう。
壁白と彩世はコチョウが降りてこない限り手を出すことができない。
それぞれ颯淳と真騎を守るように立っている。
そして、抜け出した人影がもう一つ。

「陽子!無理だ!」

誰かが叫ぶ声に人影は落ち着いた声で答える。

「楽俊は街へ」

コチョウはますます迫り、人影は剣の包みを解いた。
夕陽にきらめいたその剣に見覚えがあった。

「…海客」

一瞬気がそれた。
颯淳に向かって飛来したコチョウを踊りかかるようにして人影は斬り倒した。
彩世が一瞬出遅れるほどの速さ。
人影、それはまさに颯淳たちが追っていた海客に間違いなかった。
そして人々に襲いかかるコチョウの群れ。
それ以上何も考えず、矢をつがえて放つ。何羽落としたのか数えていなかった。
襲いかかるコチョウを何度か彩世と壁白が斬りつけた。
しかし、海客の持つ剣の切れ味は、その比ではない。
骨まで断つ勢いで、コチョウを倒していく。やっと一羽倒すところをさも軽い仕事のように二羽、三羽。
そして、笑っていた。
何がおかしいのか、こみ上げる笑いをこらえきれないかのように。
同じように戦っている颯淳たちをその目に認めているのかいないのかわからなかった。
本当はこうしていることが邪魔かもしれなかったが、おとなしく殺されるわけにはいかないので。
門近くで襲われた人々の血が舞っていた。
怪我人と死人の区別が付かなかった。あるものは倒れ、怪我をしながらもなお逃げようともがいていた。全く動かない者もいた。
しかし、颯淳たちですらコチョウの鋭い爪から逃げるのが精一杯で、他の者に構っている暇はなかった。
やっと七羽まで倒し、残り一羽になった。しかし、最後の一羽が降りてこない。
それを見た海客は、低く叫ぶ。

「降りてこい!」

更に剣をそばのコチョウの死体に突き刺し、なおも叫ぶ。

「来ないなら、仲間の死体を切り刻むが、いいか!」

颯淳は海客の横顔を見つめていた。
暗くなりかけた街道にたたずむ姿は、とてもあの海客とは思えなかった。
少し気弱そうな中で唯一意志を秘めた瞳だった。
しかし、今はどうだろう。
その強い翠の瞳の輝きは、暗くなってきた景色の中でもはっきりとわかるくらいだった。
夕陽に照らされて反射した髪の色は緋色。きっと本来ならこんな髪の色なのだろうと思わせる。
赤い髪の海客と散々言われていた。
海客の言葉を理解したのかどうか、空を旋回していたコチョウは海客を目指して一気に降りてきた。
颯淳たちはその攻撃の巻き添えを避けるため、慌てて飛びのく。
海客は造作もなく一撃を与え、辺りに血しぶきが舞った。二度三度と突き刺してから、首を落とした。
首を落とすまで、たくさんの人がいるのに、呻き声と醜いコチョウの鳴き声しか聞こえなかった。

「…楽俊?」

海客は、剣の血のりを拭うと、我に返ったように辺りを見回し、そうつぶやいた。
誰かを探しているのだろうか。
連れがいるのだろうか。
もう一人海客がいたが、その人だろうか。
辺りは凄まじい有様で、人を探すのに適した時間でも場所でもない。
暗くなり、人の顔を判別するのが難しくなってきていた。
海客に話しかけてみようと動いたそのとき、海客は唇をかみしめ、門とは反対の方角へ走り去った。
あっと思ったものの、真剣に追いかける気にはなれず、その後姿を見送った。
それは颯淳以外の三人も同じだったらしく、コチョウとの戦いに疲れた体を追いかける気力には使えなかったと言うのが本音だった。
颯淳たちはそのままコチョウの襲撃に倒れた人々の中から、まだ息のあるものを助けることに専念した。
その中にいた半獣が楽俊だと知ったのは、それから半日経った頃だった。