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十二国記:颯淳の物語

第六章




其の一

「あれ…陽子?」

灰茶の毛並みをしたねずみの半獣は、目覚めてすぐにそう言った。
役所の裏は臨時の病院になり、負傷者が運び込まれていた。
颯淳たちは成り行きでそのまま役所に泊まった。
コチョウを倒したのが颯淳たちだとわかると、食事を振舞われた。
とは言うものの、とりあえずお腹が膨れる程度のもので、真騎などは宿屋に泊まったほうがまともな食事にありつけたとうるさく言った。
いつの間にか颯淳たちの肩書きは、妖魔退治になっていた。
違うと説明しても、ではなぜ巧国をうろついているのか詳しく説明はできず、面倒になりそのままにしておいた。
本当はコチョウをほとんど倒したのはあの海客だというのは黙っておいた。そのほうが海客にとって都合はいいに違いない。

「おいら、楽俊ていうものだ」

半獣は頭をかりかりかきながら、起き上がった。
周りには小さな子もいるが、朝早いせいかまだ皆眠っていた。

「一緒に戦っていた奴を知らねえかな」

小さな声でそう聞いた。

「…門から離れていった」

壁白はそう答えた。

「…そうか」

半獣の楽俊は肩をすぼめて小さくつぶやいた。

「それよりも…」

壁白が何と切り出したらいいか迷っている風だった。
楽俊は黒い目を壁白に向け、次の言葉を待っている。

「あの女は、何で追われているんだ?」
「…おいら、女だって言ったかな?」
「いや、俺たちは知ってるんだ。とある事情があって」

楽俊はため息をついた。

「おいらも詳しくは知らない。ただ、追われてるのは確かだ。あいつ自身もわかっちゃいないようだったな」
「ただの海客とは違う、からか?」
「…わからねぇな…」
「俺たちは、捕まえるつもりはない」
「うん。それはありがてぇ」

鼻をひくひくさせている。
なんだか妙にそれがかわいらしくて、傍で見ていた颯淳はこっそり笑った。

「これからどこへ?」
「この国は海客にはつらいからなぁ」
「…雁国か」
「陽子は金を持ってない。大丈夫かな、あいつ」

そう言って楽俊はうつむいた。
海客の名前は陽子、というらしかった。
それにしても、海客の陽子はどこへ行ったのだろう。
楽俊がいなければ宿に泊まるのは無理らしいので、やはり野宿なのだろう。役人に見つかるのも困るので、街に近づくのもできないに違いない。

「おい、壁白、どこ探しゃいいんだよ」
「真騎様、その話は外で」
「…わかった。けどな、彩世、俺たちはこのまま見過ごしにはできねえだろ」

颯淳たちはそのまま黙って外に出た。
楽俊も立ち上がって役所の外に出る。

「いきなり私たちが出て行っても、海客は逃げるだけでしょう」
「…雁へ、行くか?」

腕を組んで考え込んでいた壁白はそう言った。

「…おいらは、とりあえず阿岸へ。陽子も来るかもしれない」

楽俊はもう旅支度を整えていた。

「助けてくれて、ありがとな」

灰茶の毛並みをそよがせながら、楽俊は阿岸へと向かっていった。

「楽俊についていけば陽子に会えたんじゃないのか?」

真騎は不満気に壁白に言う。

「いや、かえって、俺たちを見たら近寄ってこないかもしれない」
「…と言うことはつまり」

彩世は楽しげに言った。

「楽俊の後をついていくのね」
「…彩世は本当に、楽しそうだな…。ある意味うらやましいよ」

壁白はそんな彩世を見ながらぼやく。
そして颯淳たちは、楽俊を見失わない程度に追いかけ、見つからないように十分間をあけることと風上に立たないようにだけ気をつけてついていくことになった。
阿岸までの距離は20日以上かかる。
旅慣れてきたとは言え、これも結構つらい。
ましてやお金を持たない陽子はどれくらいかかるのか、見当も付かない。
一軒の宿屋に入り、お茶を飲む。
巧国の街は、楽俊には厳しかった。
こっそり伺っている颯淳たちの目の前で、宿屋を何件も断られているのを見ることもしばしばあった。
きっと楽俊も雁国に行けば、今よりもずいぶん楽になるに違いない。
しかし、半獣は人の姿になれるのに、楽俊はねずみの姿のままだった。

「あいつ、何で人の姿にならないんだ?」

断られるたび、いらついたように真騎はつぶやく。

「そのほうが便利だろうに」
「どちらにしても旅券を見せろとなるから同じじゃないのかしら?」

颯淳は彩世の言葉に自分たちの旅券を見た。
巧国へ入った折に発行してもらった旅券だった。
彩世と颯淳は慶国内では追放の身分なので旅券を発行してもらうことはできなかった。
仕方がないので、壁白と真騎の連れということにして行商人のふりをした。
どちらにしても慶国の女たちは皆旅券を持っていなかったので、あまり怪しまれずに済んだ。
出入国禁止となった今では、慶国民に旅券が発行されることはないらしい。
ひどい話だ。
今、自分を証明するものはこの旅券だけだった。

「それでもよ、せめて人の姿になれば嫌な顔をされることはないだろう」

真騎はしつこく食い下がる。

「楽俊は自分であの姿を選んでいるのよ。それって、凄いことよね」

彩世の言葉に颯淳は大きくうなずいた。

「彩世さん…」
「はい?」
「いつか私たちも、慶国に戻れるといいね。もちろん、そこらじゅうの国を見て回ってからでいいけど」
「そうね」
「あーあ、俺たちも早く慶国に戻りたいよ」

卓にひじをついて、真騎はぼやく。

「あんなに貧しくても?」

彩世は笑う。

「もちろん!だって、俺たちの国じゃないか。な、壁白」
「まあ、冬に戻ってもいいことはないけどな」

颯淳は出てきた村を思い出していた。
決して豊かではない村。
いいこともあまりなかったが、嫌うほど嫌だったわけではない。
国を出てからもうどれくらいになるだろう。
午寮を出てからおよそ二十五日。
明日はいよいよ阿岸にたどり着きそうだった。



其の二

潮の香りがした。
港街、阿岸に着いたのだ。
丘の上から見る青海は青く、水平線の向こうにはかすかに雲がかかっているのが見えた。
颯淳たちは青海を見るのは初めてだった。そもそも虚海でさえ見たことはないのだ。

「おお、すげえなぁ」

子どものように真騎ははしゃいで丘を駆け下りていく。
楽俊はもう半時ほど前には着いているはずだ。
道中念のため、阿岸付近に陽子がいないか捜してみたが、姿は見えなかった。たどり着けていないのか、それともすでに阿岸に着いているのか。
塙麟は現れなかった。具合が悪いのだろうか。
壁白の話では、海客が現れたという噂も聞かなかったが、街道にはたびたび衛士の姿を見かけた。妖魔のせいなのか、海客のせいなのかはわからなかった。
楽俊は妖魔にも会わず、宿屋で泊めてもらえなかったことをのぞけば順調に旅をしていた。
このまま阿岸に向かうか、陽子を待つかで意見は分かれた。
陽子の容姿は忘れていないので、もし会えばわかるだろうが、肝心な陽子は人目を避けるために姿を現すかどうか。
楽俊は十日ほど阿岸の街に滞在した後、船に乗って雁国烏合へ行くことに決めたようだった。
結局、颯淳たちも更に十日ほど滞在した後、陽子が現れないのではなく、密航という形もありうることを考え、烏合へ向かうことにした。
もし本当に密航して先に行ってしまっていたら…と、壁白と真騎はよく言い争っていた。
どちらにしても五日に一便しかない船をそうそう逃すわけにはいかず、颯淳たちは船上人になった。
初めての船旅は、さほど悪くなかった。
ただ、壁白だけが船酔いがひどく、もう二度と乗らないと弱々しく訴えた。
もちろん散々他の三人にからかわれたのは言うまでもない。
船上での妖魔は一度だけ、それも船が出た直後に現れた。
小さな鳥だったが、尾に毒があるとかで、厄介だった。
もちろん颯淳たちは妖魔退治に一役買った。
壁白は船室で横たわっていたので、鳥を見ることはなかった。
雁国に着いたら、妖魔を退治することもないだろう。
颯淳たちはそう願っていた。

三日ほどで見えた烏合は、あまりにも大きかった。
巧国から初めて来た旅人は誰もが口を開けて見入った。
豊かな国とは、これほどに違うものなのか。
巧国でさえ慶国よりも栄えていると感じたが、雁国の立派さはその比ではない。
なんとなく圧倒されたまま、人波に押されるようにして船を下りる。
港は大きな船が泊まることもできる。
人々の顔は明るく、活気に満ちている。
港でちょこまかと動く人影を認め、お互いに声を上げる。

「楽俊!」
「午寮の!」

楽俊は頭を掻きながら、笑った。

「…おいら、助けてもらったのに名前知らなかったな」

そうだったろうかと颯淳たちは顔を見合わせ、それぞれ自己紹介をした。

「そうか、慶国の…。今はいい噂は聞かないな」

陽子が来ないか、港でずっと働いていたのだと言う。
ねずみの姿のまま器用に荷運びをしていた。

「妖魔もほとんど出ないからなぁ。妖魔退治は仕事にならないかもな」

それならそれで、玄師と匠師としてしばらく暮らしていけばいい。
そう言うと、感心したように言った。自分には学しかないから、と。
楽俊はかなり聡明で、はるかに頭がよいと感じていた。
それでも巧にいては官吏にもなれないし、それどころか上の学校にもいけない。働くことも出来ない、雇ってもらえない。
おそらく慶でも同じような待遇になるだろう。
しかし、楽俊には夢があった。
颯淳の未来はまだ不透明だった。
壁白と真騎はいずれ慶国へ戻り、田畑を耕して暮らしていくのだと言う。
それが、普通の民の暮らしだ。
颯淳は、まだそんな心境になれなかった。
田畑を耕して暮らしていくことは嫌いではない。
妖魔を倒していくのが楽しいとは思わない。
官吏になれるほどの才覚もなければ、商売ができるほどの手管もない。
いったい何が残るのだろう。
とりあえず、何か、この旅でつかめたらいいと思っていた。
海客を追うためではなく、自分の未来を見つけるために。
そしてやはりその先が田畑を耕すことだったとしても、それで構わないのだ。
ずっと人との付き合いなどどうでもよいと思っていた。
それなのに、つかず離れずこの一緒に旅する仲間は颯淳を助けてくれた。
信じることは苦手だったが、いつの間にか信じたいと強く願っていた。
信じてほしいと思っていた。
そう、いつも颯淳の周りには、信じてほしいなどと言わなくても助けてくれる人々がいた。
颯淳につらく当たったり、裏切った人々などそう多くはなかった。
颯淳がぼんやりとそんなことを考えている間に、異議を唱えるまもなく、颯淳も楽俊と同じように港で働いて日銭を稼ぐことになっていた。



其の三

幾つめかの巧からの船が着いた頃、降りてくる人々が恐ろしげに話していた。妖魔食いの妖魔が出た、と。
それは大きな妖魔で、雷電を伴い水しぶきを上げて現れたらしい。
空からやってきた妖魔を食い散らし、再び海の中に消えた、と。
近頃烏合でその妖魔食いの妖魔を倒す有志が集まっていると聞いたが、どうやらそのことらしい。
もちろんまだ倒したと言う話は聞かない。
颯淳たちも誘われたが、そこまで出かける資金と最高の冬器を作る材料がない。
貸すぞ、と言われたが、返せる当てもない。
そもそも妖魔倒しにはさほど興味なかったのだ。
颯淳たちが巧から来た船の荷を降ろすのを手伝っていると、楽俊がうれしそうに駆け寄ってきた。

「陽子が着いたんだ」

仕事に没頭するあまり、乗客まで見ていなかったことに気がついた。
没頭するほどこき使われたと言うのが本当だったが。

「そうか、それならもう心配はないな」

壁白がそう言って笑った。
楽俊はすぐに陽子を連れて県正に行くらしい。
難民に対してもそうだが、雁国では海客はきちんと保護されるのだ。
楽俊と別れ、目的もなくなった颯淳たちは、次の居場所を求めることになった。
このまま楽俊たちについていっても仕方がないし、さすがに雁国まで来て陽子を追えとは言わないだろう。
どちらにしても、あれから塙麟には会っていなかった。

「とりあえず、もう一度慶に戻れないかと思っているんだが」

近頃、慶の清谷から船が着くようになった。それも、慶から脱出した民を山ほど乗せて帰っていく。
前の女王が崩御して、布告も取り消されたのかもしれない。
何せ、行く民はいても雁国へ来る慶国の民はほとんどいない。
皆国を離れず農作業に励むようにとでも布告が出ているのかもしれない。
それならそれで、壁白たちは国に戻るつもりであったので好都合だ。

「…颯淳様、どうする?」

国に戻ってすぐに追い出されるのは堪らない。
彩世はあまり気乗りしない感じで颯淳を見た。
颯淳も決めかねていた。

「どちらにしてもお前ら二人置いておくのはなぁ」

真騎は考え込む。

「あら、真騎さま、私たちを女扱いしてくださったことなんてありましたっけ?」
「だって、俺たちより強い…あ、いや、ま、一応な」

冷や汗をたらしながら、真騎は慌てて言葉をつくろった。

「再び慶から出られるかどうか、それはわからないが、一度戻ってみるか?」

壁白は颯淳と彩世に問いかけた。

「不都合があれば、もう一度旅に出ることにしよう」

颯淳は息を吐きながら彩世にそう言った。

「もし何かあればまた力になるさ」

壁白はうなずいた。

「まあ、壁白様たちがそこまで言うのなら、一緒に戻ってあげるわ」
「…いや、そこまで言ってないが…」
「私たちと離れるのがさみしいならさみしいとおっしゃいな」
「…いや、言ってないし…」
「真騎さま、…何か、おっしゃいまして?」

彩世は振り向かずに真騎に言った。

「いや、さみしいです、はい」

真騎は棒読みでそう答えた。
彩世は満足げに笑って、うなずいた。

「彩世って、人生失敗しなさそうだよな、なんとなく」

真騎はぼそりとつぶやいた。


翌日、慶の清谷行きの船に再び乗ることになった。

「しまった…、船は…」

乗るときになってようやくあの悪夢を思い出した壁白だった。

「…壁白って、賢そうに見えて抜けてるよね」

打ち上げられた魚のように船室に横たわる壁白を眺めて、颯淳は彩世に言った。

「壁白様はね、小学の頃、名前に引っ掛けて穴のあいた壁って言われてたわね、確か」

彩世は思い出したのか、おかしそうに吹きだしてそう言った。

「せいぜい二日なんだから、我慢してもらいましょう」

彩世の言葉通り、わずか二日で清谷に到着した。
烏合に比べると、寂れたみすぼらしい港だった。
いや、そもそも比べるのは間違いのような気もする。
これが国の差なのだ。
慶の港が烏合のような港になるのは、いったいどれくらいかかるのだろう。
颯淳たちが港に降り立つと、すぐに衛士がやってきた。

「お前たちは慶の者か?」

うなずくと、旅券を見せろと言った。

「慶の者なら、今新たな女王が討伐軍を編成している。新王のために戦うのなら一緒に来い」
「いきなり言われてもなぁ」

真騎は頭をかいて面倒そうに答えた。

「すまんが、討伐軍と言うのは、いったいどこと戦うのだ?」

顔も青白いまま、壁白が問うた。

「いや、身体を壊しているのなら、参加する必要はない。すぐに村に帰って…」
「お役人様、新王に敵対しているものがいるのですって?」

壁白を黙らせて、彩世が楽しそうに話しかけた。

「うん?あ、ああ。新王を認めない反乱軍がいるのでな」
「それは、女でも参加できますの?」
「もちろん戦う意志があれば参加できるぞ。もちろん報酬も支払う。しかし、お前のような女が…」

衛士はそう言いかけて、彩世の背負う斧を目にした。

「…自信があるのなら、ぜひ、来い」
「まあ、私でもいいんですの?」
「お、おい、彩世、俺はそんな面倒そうなものに行きたくないぞ」

一応意見をささやく真騎だったが、彩世の楽しげな様子にそれ以上は何も言わなかった。

「誰か、彩世を止めてくれ…」

船酔いの名残りにしゃがみこみながら、壁白がうめく。

「…止められないと思うけど?」

颯淳も内心驚きながら行く末を見守っていた。

「よし、その気があるなら今からすぐに来い」
「は〜い」

彩世ははちきれんばかりの笑顔を見せて、颯淳たちを振り返った。

「さ、行きましょう」

壁白と真騎は、見るからに肩を落としながら彩世の後をついていった。



其の四

衛士に連れて行かれたのは、慶国の首都尭天に程近い街だった。
役所ほどの広さの建物の庭でそれぞれ訓練を行っているらしい人々がいた。
これらの人々が全て新王に期待を寄せているわけではなさそうだが、少なくとも今を変えようと動いている人らしいことはわかる。
…それが正しいかどうかは別なのだが。
颯淳は周りを見渡しながら、見知った顔がいないかと少しだけ怯えていた。
今更見知った顔に会ったからといって、何か不都合があるわけでもなかったが、なんとなく昔の自分に会うようで怖かったのだ。
船の上で三人は言ってくれた。
あれほど人を拒絶していた颯淳が、心から笑うようになったこと。
もちろんそれは他ならぬ三人のお陰だということはわかっていたが、口には出せなかった。
とにかく、雑多な人々はそれぞれ冬器を手にしている。
そのうち颯淳たちにも声がかかった。

「そこのお前たち、なにやら自信ありげだが、こちらへ来て相手にならぬか?」

体躯の大きい男が声をかけてきた。
どうやらこの素人同然の集まりを訓練して指揮する軍の長らしかった。

「それはいいんだけど…、残念ながら私の冬器は人殺しの道具じゃないのよねぇ」

長には聞こえないように彩世はつぶやいた。
彩世は妖魔に対しては容赦ないが、人に対しては打ちのめすだけで殺しはしない。
颯淳はさほど気にしていなかった。というのも、そこまで気が回せるほど強くもなく、気を抜けば自分が殺されていたかもしれなかったからだ。
そう、一緒に旅をするようになって余裕ができたせいか、追いはぎを逆に追いはいだ他は人に手をかけたことはなかった。

「ま、いいか」

彩世はうなずくと、斧より小ぶりな一振りの剣を構えて、手合わせをするらしい一人の男の前に立った。

「いいの?」

先ほどの彩世のつぶやきを聞いた颯淳は心配そうに言った。

「ええ。この人なら殺されるほど弱くもないでしょうし、これは冬器でもないから殺せもしないわよ」

なるほど、目の前に立った男は仙のようだから、冬器でもなければ殺せはしないだろう。

「ほう、女から来るか」

真騎は長の声に肩をすくめて言った。

「俺らの中で一番強いからな、彩世は」
「…一言余計よ、真騎様」

颯淳は脇に避けて手合わせの行方を見守ることにした。
いつの間にか周りは男と彩世の手合わせを見つめている。

「よし、いくぞ」

男の気合の一声と共に剣がぶつかり合い、音が響く。
砂が舞い上がり、着物がはためく。
颯淳は華麗に動く彩世を見ながら、ぼんやりと陽子を思い出していた。
彩世の戦う姿は美しいと思う。
その剣さばきは華麗で、あまり重さを感じさせない。自分で剣を作るせいか、剣の扱い方を知っている。多分それが同じ剣を扱う壁白との違いなのだろう。
陽子は、何と言うか、人をひきつけるのは確かだった。
彩世ほど背が高いわけでもなく、華麗さも優雅さもない。
驚くほど大胆で、豪快だった。それでいて素早く動き回る身のこなしは、舞を思い起こす。まだ荒削りな剣の舞を見るようだった。
あのコチョウを相手にして引けをとらない、堂々とした様は何か違うものを感じる。
しかし、それがなんなのかはわからなかった。
ひと時が流れて、二人に疲労の色が見え始めた頃、長が止めた。
彩世と男の手合わせは思ったとおり互角だった。
そう、彩世はそれほどに強かったのだ。
いや、それとも男のほうが弱かったのか?

「よし、女、ご苦労だった。すばらしい腕前だ」
「ああ、疲れた…」

ぼやく彩世には構わず、周りは感嘆のため息をつく。

「彩世、お前の行く末は禁軍か」

壁白も半ば感心したように彩世に言う。

「…壁白様も手合わせしてみたら、すぐに伍長くらいにはなれるかもしれないわよ」

先ほど誘われたときとは違って、少々不機嫌になりながら彩世が答えた。

「…彩世さん、どうしたの?」

手ぬぐいで汗を拭く彩世に颯淳は聞いた。

「うーん、少し計画が甘かったかしら」
「え?」
「すぐにつぶせるかと思ったんだけど」

颯淳はようやく彩世の言葉と行動を理解した。
おそらく、新王と称する者を擁護するこの馬鹿げた組織を中から引っ掻き回すつもりだったらしい。
そもそも、船の上で聞いた話にはどうも新王が偽王ではないかと言うことだったのだ。
だいたい前王の妹が次王に立つなど、誰が信じられようか。
そんな詳しい話をしてくれた男はかなり胡散臭そうな格好をしていたが、器量がいいことには間違いなかった。
柔らかい物言いと使われていた布地の良さは、おそらく身分は高いだろうと思うのだが。
器量がいいのがなぜ関係あるのかと言えば、彩世の信じる根拠の一つにあるからだった。
いわく、器量がいい男は身分が高くて王にほど近い人物である、と。
確かに歴代の王が不細工だと言う噂はない。実際誰も温和な顔立ちか、凛々しい顔立ち、女ならば美人と相場は決まっている。
得てして、その王の周りの人物も傑出したものが多いから、自然とそう言う噂にもなるのだろう。

「…内側からつぶすつもりだったの?」
「だって、普通に行っても金波宮には入れないでしょう?」

金波宮には新王を拒絶した官僚が立てこもっているのではなかったか。

「…官僚になりたいの?」
「違うわよ。見てみたかったの」
「…それだけ?」

颯淳は驚いて聞き返した。

「そうねぇ…。あとは見所のある人でもいたらいいわねぇ」

颯淳はしばらく呆気にとられた後、盛大に笑い出した。

「あら、颯淳様。そんなにおかしかった?」
「…彩世って、そういうやつだよなぁ」

誰に言うともなく真騎はうなずいて言った。

「彩世が新王じゃなくてよかったよ」

壁白は苦笑いして言った。

「あら、まだわからないわよ。もし景麒が私の前に来たら…」
「あー、ないない」
「颯淳様、そんなにきっぱりと否定しなくてもいいんじゃありません?」

周囲のざわめきをよそに話し込む四人は、その日のうちに徴兵所の噂になったのだった。