堯天までの道のりは、四人が思ったより早かった。
気持ちばかりが先を行き、いつもの和やかな雰囲気とは違って黙々と歩いたせいだったかもしれない。
草の葉で擦れた手を気にしながらも、颯淳は高い山を見上げていた。
堯天の中心にあり、陽を遮るほど高く、山の西側では日が昇るのも遅いという。
その山の上には、王が住むための宮がある。
その宮、金波宮は現在封鎖中。
将来そこにきっと陽子が立つ。
そのために、今自分たちが頑張っているのだと言い聞かせていた。
堯天へ戻る途中、何度か噂話として新王擁立について話をした。
村で話をすれば村中に広がる。行く道の街道で休憩中に話せば、人から人へ、里から里へ、そして町へ広がる。
新王だと名乗っている叙栄が偽王だと言うと、大方の者は不審さを露わにする。
疑うすべを持たない者たちは、何を証拠に疑ってよいのかわからないのだ。
逆に言えば、そうだと言われれば素直に信ずるしかない。
颯淳たちでさえ、確かなる情報源となる者たちからの話がなければ、誰が新王になってもさほど差はなかった。国を治めて安寧をもたらしてくれさえすればいいのだから。
でも今は違う。
新王がよい者かどうかは大きく違う。
短命な女王が続いて、先代女王の布告によって国を追われてからは。
だから、今は陽子にこそ頑張ってほしいと思う。
そのために自分たちができることを見出した。
官吏になる才能もない。畑を耕したとは言っても手伝い程度だった。
そんな自分たちができることなどたいしたことではない。
それでもよいのだ。
小さな噂はやがて大きな渦となって、きっと国を変えるに違いない。
今はそれを信じるほかはない。
堯天に着いてすぐ、反新王派の者たちが颯淳たちを襲ってきた。
余計な噂を流す者たちを邪魔だと思ったのかもしれない。
しかし、新王派とは言ってもどちらの新王派かわかっていないようだった。
偽王叙栄なのか、陽子なのか。
颯淳たちはとりあえず襲ってきた者たちを手際よく倒し、縛り上げて城の中の様子を聞きだした。
ただの旅人だと思っていた者たちに逆に縛り上げられ、反新王派は恐れてあっさり話した。
金波宮で篭城する者たちは、誰が来ても確たる証拠がない限り開城するつもりはない、と。
確たる証拠、それこそが王と供にある麒麟の存在だった。
麒麟を助け出すと楽俊と延麒は言っていた。
あれから数日、無事に助け出したのだろうか。
雲海の上から急襲するということで、下からはその様子をうかがい知ることはできない。
だからと言って、さすがに金波宮に押し込むわけにもいかず、颯淳たちは堯天の街でじりじりと待つことになった。
その知らせがもたらされたのは、堯天に着いてからゆうに5日はたっていた。
あれからぱったりと襲われることはなくて、ただ暇な日々。
襲われなくなった理由は、州城からの知らせ。
雲海の上で戦いが始まっていて、ただの平民を構っている暇などなかったのだ。
街では胡散臭い目で見られることにも慣れた。
暇ついでに訪れた堯天の近くにあったはずの徴兵所は、跡形もなくなくなっていた。
そしてその徴兵所で過ごした日々も無駄ではなかったらしい。
徴兵所にいた者たちが颯淳たちを見知っていた。
胡散臭い目で見られていた颯淳たちを宿館に泊めてくれたのだから。
だいたい男二人女二人で、武器を持って移動している平民顔の四人組なんて
そうそういるものじゃない。用心棒代わりにもなるし、この旅人の減ったご時勢に宿代を払ってくれるなんてちょうどいい。
ただそれだけのことだったが、他の宿館に断られた四人にはちょうどよかった。
とにかく、宿館で武器の手入れをしていた四人に、子どもが書簡を持ってきた。
見慣れない子どもから預かったという。
思い当たるのは子ども然とした雁の麒麟。
すぐに開いて読むと、四人は宿館を飛び出したのだった。
街外れ、里祠にあの二人は立っていた。
前回会ったときはあまりにも突然すぎて、叩頭することさえ忘れていた。
膝をつきかけて延麒に止められた。
こんなところで目立つことをするな、ということかと思えば、今さら叩頭なんて必要ないという。
どうやらかなり気安い気性であるらしい。
同じように困った顔をした楽俊を見たら、どうやら楽俊も同じ経緯をたどったらしい。
四人はそれ以上何も言わずに接することにした。
「もうすぐ、開城する」
延麒は少し疲れた顔を見せながら、にやっと人懐っこい顔を見せて笑った。
「それでは、景台輔は助け出されたのね」
彩世の言葉にうなずいたものの、そわそわしたように楽俊が延麒を見やる。
「何かあったの?」
颯淳が問うと、二人は四人の顔を見た。
「手伝えって言うんなら手伝うけど」
真騎が言う。
「多分、城下に降りる奴がいる」
苦々しげに延麒は言った。
壁白はうなずく。
「見つけ出して捕らえろ、だろ」
「すまない。何もしなくていいって言ったのに」
「いや、構わない。ちょうど暇だったし」
壁白は手を挙げて延麒の言葉を遮った。
「そうそう、もう武器の手入れもやめようかなと」
「人に武器を振るうのは最後かもね」
颯淳は、真騎と彩世の言葉を聞きながら、陽子のことを考えていた。
「どうした、颯淳。やっぱり嫌か」
そう問われて、はっとして、心配そうにこちらを見やる麒麟と半獣を見た。
「そうじゃない。陽子は…大変だなと思って」
麒麟と半獣は顔を見合わせた。
どうしてこの二人と知り合いなんだろう。
颯淳は今まで知り合うことのなかった人々を前にとまどっていた。
海客としてきた陽子だってきっと同じだろう。
国民が顔をあわせることのない麒麟の延麒。
そして、この慶では、たとえ半獣でもその姿をさらすことのない半獣の楽俊。
「自分が王になってもいいのかって、あいつも悩んでる」
半獣の時には表情はわかりにくいはずなのに、この楽俊はそのひげと尻尾で感情をあらわにする。
今も陽子のことを思いながらひげと尻尾を垂れて見せた。
「王になってもいいのかじゃなくて、陽子にしかなれないから…」
麒麟に選ばれるなんて、滅多にあるものじゃない。
そう胸を張っていけばいいのに。
颯淳はため息をつく。
「陽子が王にならないのなら、私たちは、どうすればいい」
王が治めていても辛い国。
それは本当に辛い。
それでも文句は言える。
王のいない国。
そんなのはもっとごめんだ。
凍え死にそうな戴の話は伝え聞いている。
「なら、それを陽子に言ってやってくれ」
延麒は真剣にそう言った。
颯淳はただ黙ってうなずいた。
(2007/06/08)
里祠で話した後、二人は雁へ戻るという。
血の臭いの多いところ、怨詛のあるところには長くいられないのだという。
そんなことを言っていたなと颯淳は思い出した。
しかし、麒麟の生態など普通の国民は知ることはない。
颯淳は一つだけ、とずうずうしくも麒麟にお願いをしてみた。
「…いつでもいい。陽子に会う機会ができるなら、会わせてほしい」と。
もちろん向こうはすでに慶の王であり、そんな願いは無理かもしれない。
それでも、今願わなければ二度と会わない気がする、と。
会わないのではなく、会えないのかもしれないが。
「うん、ぜひ会って言ってやってくれ。おまえたちの言葉なら届くかもしれない」
そんな風にあっさり承諾した延麒だったが、当の陽子に聞かなくて大丈夫なんだろうかと少し心配になった。
楽俊はほとんどしゃべらず、そんな延麒を見て少しだけ息を吐いた。
楽俊の憂い顔は、慶を思ってなのか陽子を思ってなのかわからないが、心配そうにそわそわとしていた。
「戻りましょう」
延麒と楽俊を見送っていた颯淳に彩世は言った。
まだこれで終わったわけじゃない。
これで武器を使うのが最後になるといい。
もちろん王がたったからといって妖魔はすぐにいなくなるわけではないれど、確実に減る。
颯淳は背中でカチリと鳴った弩と矢を手で確かめた。
颯淳たちは国府へと続く堯天山の麓に来た。
いつもならいる国民の姿もほとんど見かけない。官の姿もない。
どこかに隠れているのか逃げ出しているのか、それともずっと上のほうでの騒ぎに馳せ参じているのか。
おそらくこんなところから逃げてくるのは下級官吏。
それでも紛れて逃げ出してくるかもしれない。
これからようやく仕事を与えられるというのに、逃げ出すような輩はろくな奴じゃない。
誰が官吏か、もちろん見分けなどつかないが、真騎と彩世は片っ端から捕まえる気でいる。
真騎は延麒に言われたから捕まえる、ただそれだけ。
彩世は悪い者は捕まえる。不正は許しがたい。
壁白は正直、逃げたい奴は逃がしてしまえばいいと思っていた。
こんなときに逃げ出すような官吏などいらない。きっと裏で何かしていて後ろめたい、もしくはいられなくなって逃げだすのだろうから、と。
颯淳も基本的には壁白と同じだったが、逃げ出す奴こそ責任を取ってもらおうと思っていた。捕まえて、その逃げ出した罪を目の前に突きつけてやりたかった。
それぞれ四人は、麓で下りてくる人影がないかどうかだけに気を配ることにした。
「ねえ、思ったんだけれど、それこそ必死で逃げ出そうとする輩は、騎獣とかで逃げるんじゃ…」
彩世の言葉に一同はぼんやりとした頭で上に続く階段を見上げた。
これまでの半時で下りてきたのは、混乱しきった官の一人だけで、これはと思う者はただの一人も降りてこなかったのだった。
「それは騎獣があってこそだと思うぞ」
「そうかしらねぇ」
「考えてもみろよ、彩世。武人ならともかく、ただ仙というだけで騎獣を乗りこなせるやつなんていないだろ」
「あら、真騎様は、自分なら乗りこなせるって息巻いていたのじゃなくって?」
「練習は必要だろ、練習は」
「…そうは言っても、結構暇だなぁ」
颯淳のため息に壁白はぼんやりしたまま言った。
「…上るか」
壁白の言葉にそれぞれさまざまな反応を示した。
「はぁ?」
自分のため息が原因とはいえ、まさか上に上るなどと言う答えが返ってくるとは思っていなかった颯淳。
「やった!」
退屈だったのですぐに賛成した真騎。
「…上るの?面倒な」
続く階段にうんざりしそうな彩世。
「咎められたらどうなるの」
颯淳に詰め寄られても壁白は平然と答えた。
「麒麟から頼まれたんだからいいだろ。それに陽子が何とかしてくれるんじゃないか?」
「…なんてずうずうしい」
そう思いながら、颯淳はそんな風に人を当てにする壁白を珍しく思った。
いつもなら人を当てにすることは滅多にしないし、人の善意を期待することもしないのだから。
しかし、他に反対する人もいないので、結局四人は国府へと続く階段を上り始めた。
もちろん国府までなら誰でも上ることができる。
何かを奏上したいときには国府まで上がる者もいる。
もちろん官府にまずは申し出るのが筋であるので、滅多にないが。
国府まではすぐだった。
どうなっているのか知らないが、永遠とも思えるくらい長く続くと思われた階段は、ぐるりと回ったところで途切れた。
国府に入る皋門をくぐると、一人の男が歩いていた。
ひどく慌てた様子で右往左往している。
官吏だろうかと見れば、どう見ても普通の国民であるようだった。
うろうろとそこらじゅうを歩き回った挙句、四人の姿を目に留めて駆け寄ってきた。
「どうなってるんだ?」
どう答えていいかわからず黙っていた。
「川の堤が切れそうで、奏上しに来たんだが」
「府所の方がいいんじゃないか?」
顎を擦りながら気まずそうに壁白が答えた。
「言ったとも。州城にまで出かけたやつもいた。だが、なんだかひどく慌てて禁軍は出て行くし、川の堤どころではなかった感じだと」
それはそうかもしれない。
四人はそれぞれそんなことを思い、男の言葉を聞いていた。
「このままでは堤がもたないかもしれない」
颯淳は胸が痛んだ。
堯天ではよく晴れていたが、どこかの州ではきっと雨続きなのだろう。
自分の幼き頃の洪水を思うと、何とかしてやりたかった。もしかしたらもう手遅れかもしれないが。
そんな颯淳を他の三人は見つめていた。
颯淳が洪水で自分たちのいた里にまで流されてきたのは、忘れようとしても忘れられない。
…陽子。
お願いだから、早くこの国を救って。
一刻も早く王になって、安心して暮らせるようにして。
そのために私ができることはなんでもする。
もう畑を耕すことも厭わない。
何かを成そうなどと考えなくてもいい。
だから。
楽俊は陽子が王になるのをためらっていると言っていた。
もはやそれどころではないのだ。
その反面陽子の葛藤はよくわかる。
もし今自分に麒麟が王だと告げたなら、躊躇するだろう。
ただ、颯淳は見てきた。
荒れた土地を。
荒んだ民の姿を。
食料にも事欠いた子どもたちを。
そして、今はまだどこにでも出る妖魔の存在を。
海客の陽子は夢のような常しえの蓬莱から来たのだから、こんな国の現状を知らないのかもしれない。
長く治世の続いている雁や奏のような国もあるが、多くの国は乱れていて、王も麒麟も不在の国もある。
雁のように奏のようにならなくてもいい。
今はまだ、飢えることのない治世をもたらしてくれれば。
ただ、それだけなのに。
「今は無理でも、新しい王がたつから。きっと来年は大丈夫」
そんな言葉は慰めにもならない。
わかってはいたが、颯淳にはどうすることもできず、男にそれだけを言って別れた。
国府の奥で息を潜めている官吏たちに聞かせてやりたい。
雨が降っただけで簡単に里が沈んでしまう国。
これが慶なのだと。
私たちの国を、あなたたちはどうしたいのだと。
問いかけても答えが出ないことは承知していたが、憤らずにはいられなかった。
(2007/06/27)
そのままさらに上へ登ろうかどうしようか迷っていた。
どうやら奥のほうに官吏はいるようだったが、それは追いかけるほどのものではない。
むしろここまで上がってきたことさえも不安だった。
日はじりじりと落ちてきて、暑さも和らぐ時間となった。それでも辺りはまだ十分に明るい。
四人は結局国府から先へ上がることはせず、上の様子を伺いながらも入口で時を待つことにした。
「…私たちって、結構いろいろな人と会ったわね」
不意に彩世がそう言った。
急にどうしたんだという感じで壁白が見やった。
「巧では塙麟にもあったし、あれが本物なら塙王にも会ったわよね。それから延麒、それに景王でしょ。この分だと延王にも会えたりして」
それはそうかもしれないと皆が思う。
これまでの僥倖は、この先の不幸の裏返しかもしれない。
それならそれでもいいだろう、と颯淳は思った。
「だから、大丈夫」
彩世が颯淳を見つめた。
「きっと今までの分、僥倖に恵まれるはず」
颯淳は首をかしげながら問い返した。
「今までの分…?」
「慶の民は確かにつらいことが多かった。でも、それは今日で終わりかもしれない」
後ろから壁白が言った。
「まだ、わからない」
颯淳は反論する。
陽子はまだ迷っていると言う。
「俺たちが説得すればいい」
真騎が空を指した。
颯淳と他の三人が見上げると、日が沈みかけた鮮やかな空を滑空してくる影があった。
騎獣に跨った二つの影。
そしてその後を付いてくる幾つかの影。
「あれは…」
四人が見上げているうちに、その影はさっと颯淳たちの傍に舞い降りた。
「お前たちが六太が言っていた者たちか」
その男が発する気は、十分に颯淳たちを圧していた。
まさか。
呆然と立っていた四人の頭に先ほどの彩世の言葉がよぎった。
「お久しぶりです」
その横からそう親しげな口調で話しかけられ、さらに四人は目を疑った。
失礼にも指を差して真騎が言った。
壁白は相変わらず表情を変えなかった。
「赤い髪の…」
「海客…」
「…陽子」
「景王!」
驚きをそれ以上どう表現していいかわからなかった颯淳。
口に手を当て、驚きの声をあげた彩世。
久しぶりも何も、久しぶりと声をかけられるほど親しい間柄でもなかった。
ほんのわずかすれ違っただけの知り合い。
それも楽俊がいなければ話をすることさえなかった。
陽子の身につけた鎧の様子から、颯淳は雲の上での出来事を悟った。
腰に帯びた剣はおそらく血に染まったことだろう。
あの時見たような妖魔の血ではなく。
「…まだ景王と呼ばれるのはちょっと…」
赤い髪に翠の瞳の少女は、少し困ったようにそう応えた。
それに構わず四人は膝をつき、叩頭しようとした。
「今ここでそれは控えてもらおうか」
男はゆったりとした声で圧し留めた。
どう見ても延王。
もちろんそんな紹介はされていなかったが。
延王のその若き姿は他国まで響いている。
容姿が詳しく伝えられることはないから四人の思い込みでしかなかったが、それはその男の言葉からしてあながち間違ったものじゃないことを知る。
傍についているのは臣下だろう。
四人が少しでも不穏な気配を見せれば、切り捨てられてしまうほどの殺気を含んでいる。
「どうだ、誰か降りてきたものはいたか」
壁白は慎重に答えた。
誰も降りてこずにここでそのまま待っていたことを。
「そうだろうな。下りる余裕さえ与えなかったからな」
うなずく男は陽子に目配せをして、その場から立ち去っていく。
「上は開城されたんでしょうか」
彩世が尋ねると、屈託なく陽子はうなずいた。
「一応は。ひとまず片付けてからしかとても中に入っていけないけど」
最後は少し自嘲気味につぶやいた。
戦闘の様子を思い出したのかもしれない。
「景台輔は、ご無事なんですね」
「うん。今は雁国に」
「…よかった」
彩世の言葉を聞いて、陽子は少し首をかしげた。
「楽俊と延麒にあなた方と話をしたほうがいいと言われたんだけど」
赤い髪は鮮やかに日の色と重なる。
「私が、話をさせてほしいって頼みました」
颯淳はそう言った。
「私のほうこそ、いろいろ手伝ってもらったようで」
陽子は四人をじっと見つめてから、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとう」
四人は景王となるべき方に頭を下げられて、うろたえることになった。
「け、景王に…あた、頭を…」
いつもは軽口を叩く真騎までもが言葉に詰まった。
それを見て、今度は陽子のほうが慌てた。
「ああ、私はまだ王の自覚はないから…。
その、向こう…蓬莱では、感謝を示すために誰にでも頭を下げるんだ。だから、そんなに恐縮しないでほしい」
そこで颯淳は思い切って言うことにした。
「王には、ならないんですか…?」
颯淳の言葉に、陽子は頬を強張らせた。
「楽俊から聞きました。王になってもいいのか、と」
陽子は息を吐き出して、うつむいた。
「私は、自分が愚かであることを知っている。卑しくて、とても王の器ではないと思っている。それに、まだ蓬莱へ帰りたいとも思っている」
颯淳はその言葉の重みを知っていた。
それはかつて自分に繰り返し問うた言葉。
自分は愚かだったと。
もちろん颯淳は王に選ばれているわけではない。
だから、陽子に負ぶさっているものを知らない。
そして、海客でもない。
蓬莱へ帰りたいという思いを知らない。
「私も、自分が愚かだったと今は知っています。この先それを覆すことができるのかさえわかりません。慶に帰ってくることができても、今は何をしたらいいかさえわかりません。
…でも、この国で暮らしていくためには、やはり王が必要なんです。
私たちは妖魔を倒すことはできても、鎮める力はありません。田畑を耕すことができても、洪水を防ぐこともできません」
「…うん」
「今、南のほうで堤防が切れようとしてるところがあります。禁軍は、戦で忙しくて助ける暇もないようです。堤防が切れたら、また民が死にます。
あなたが王としての器があるかないか、本当のところ、今はどうでもいいんです。
でも、誰かが玉座にいないと、この国は…民は、死んでしまうんです。
王が虐げるのもつらいけど、王がいないのは、もっとつらいから…」
颯淳は言いながら、先ほど奏上に来ていた男を思い出していた。
あれから禁軍に助けてもらえたんだろうか、と。
「…わかってる。私が迷っているのは、多分王になって命を預かるのが怖いんだと思う」
うつむいたまま、陽子は言った。
「俺たちだって先のことはわからない。
海客だからいい王になれないとか、胎果だからいい王になれるだとかは関係ない。
男王だからよいとか、女王だからだめだとか、言いたいやつはいるだろうが、少なくとも俺たちはあなたがそうやって悩んで玉座に着くことを知っている。
楽俊だって知っている。
それだけではだめですか」
壁白の言葉に陽子は顔を上げた。
他の三人は、すでに玉座に着くことを前提とした壁白の言葉に肝を冷やした。
でも、そうでないと困るのだ。
「お、俺は、兄貴の言うとおりに旅をしただけだったけど、今はよかったと思ってる。
どんなに貧しくても、生まれ育ったところは特別だってわかった。
だから、蓬莱に帰りたいって言うのはわかる。
颯淳なんかは怒るだろうけど、帰りたいなら仕方がないって思うよ」
真騎の言葉に陽子はうなずいた。
「でも、それでは景王はきっと後悔するでしょう?
あちらに行っても、きっと見捨ててきた民のことを思う。
こちらに残ってもあちらを思うでしょうけど、私たち民は、あなたを今も待っているんです。
最初からうまくいくように期待してるわけではなくて、今ここに必要なんです。
確かに今までも王に期待して外れて、腹が立ったりもしたけれど、少なくとも王座についてくれたことには感謝しています」
陽子はぎゅっと目をつぶった後、四人をそれぞれ見た。
「うん、よくわかった。あなた方の気持ちは、無駄にはしない。
颯淳、堤のことも一度確認してみるから」
颯淳は、生まれて初めて王に感謝したいと思った。
(2007/08/20)
颯淳たち四人の話を聞いた後、堤のことなのかどうかはわからなかったが、陽子は延王と何か難しい顔で話をしていた。
颯淳はそれを眺めながら、陽子は本当に王なのだと改めて思った。
それは歴代の王を間近に見たことがないので、親しみを感じている陽子だからなのかもしれないが、延王と並んで立っていても見劣りすることがない容姿。禁軍の兵たちを指揮する堂々とした態度。
まとっている気そのものが、自分たちとは違う感じがした。
他の三人も同じように思ったのか、自分たちがその場には場違いな気がして、何も言わずに周りの様子を眺めていた。
しばらくして陽子が四人の前に戻ってきた。
「堤は確認してもらうことになったから。とは言っても、私もまだ何もできないから、本当に確認だけになるかもしれないけれど」
颯淳はただうなずいた。
まだ王位についていないのだから、何もできなくて当然だろう。むしろ、言ったことが伝わったことに驚いていた。
これからは、こんな風に訴えたことが聞き入れられる国になるかもしれない。
その片鱗を感じて、颯淳はうれしかった。
「…それから、私が王になると言ったら、本当に颯淳は喜んでくれるのだろうか。
同じように国を追われた彩世は?
それから、国に帰りたかったと言った真騎は?
悩んだ私でもよいと壁白は言ってくれるのだろうか」
軽く顔を傾げた陽子の鮮やかな赤い髪が揺れた。
「もちろんです」
彩世がはっきりと言った。
颯淳はうなずいた。
真騎と壁白も顔を見合わせてうなずいた。
「良い王になりたいと思う。でも、あなた方が納得するような良い国になるには、随分とかかるかもしれない。
それでも、待っていてくれるだろうか」
「当然だろ。こんな貧しい国が一晩で戻るわけないんだから」
「真騎、口が悪いぞ」
「あ、ああ、失礼しました」
「いや、構わない」
真騎の口調をとがめた壁白に笑いかけながら、その翠の瞳に強い力が宿った気がした。
「それで、あなた方は?」
「は?」
陽子の問うた意味がわからず、颯淳は間抜けな答えをした。
「このまま土地に戻るのだろうか」
「…そうですね。真騎と壁白はともかく、私はまだ決めておりません」
「…そう。私と一緒に国を作る気はないか?」
そう言われた意味を颯淳は頭の中で反芻した。
それほど自分にとって意外な言葉だった。
「官吏になれとかそういう話ですか?」
彩世は少しだけ顔を曇らせた。
「うん…いや。私の一存では無理かもしれないが、朝に直接かかわることはできなくても、私はあなた方のような方たちに助けてもらいたいと思っている」
颯淳は軽く息を吐いた。
…できることなら助けて差し上げたい。
この身が役に立つのなら、王をかばって死んでもいいとさえ思える。
慶には陽子が必要なのだから。
でも…。
「…それは、きっと無理です」
壁白が口を開くより早く、颯淳は断りの言葉を口に出していた。
「私たちはただの民です。
国には、国を動かす者も必要ですが、私たち民がいなければ国とは呼べません。
私は、慶の民として、あなたの政が隅々まで行き渡るのを見守ることにします」
国を追放されることになったとき、颯淳は思った。
国には民がいなければならない。土地だけでは、国と呼べないのではないか、と。
田畑を耕し、店を立ち上げ、人々が生活する場こそが国であり、国民ではないのか、と。
「…そうか。あなた方のような民がいることを、私は忘れないようにする。
…いつか、慶の民でよかったと言えるような国にしたいんだ」
陽子がそう言った後で、遠くから主上と呼び声がした。
そろそろ立ち去らなければならない時が来たようだ。
「行こう」
颯淳は皆に声をかけると、名残惜しそうに立ち去っていく陽子に背を向けた。
「いいのか?」
真騎はまだ陽子の後姿を見送りながら言った。
「いいのよ、真騎さま」
「俺は官吏はごめんだ」
彩世と壁白がそれぞれ真騎の肩を叩いて歩き出した。
「こんな機会はないかもしれないぞ」
なおも言う真騎に彩世は意地悪そうに笑って言った。
「いいのよ。真騎さまは追いかけて官吏にしてくださいって言っても」
「い、いや、別に本当になりたいわけじゃ」
「…機会はあるさ」
壁白は笑う。
「なろうと思えばいくらだって。だって、これから陽子が作る国は長くなるはずなんだろ」
「まあ、そうかもな」
そうなってほしい。
いや、そうなるように願っている。
「帰ろう」
誰ともなくつぶやいた。
旅をするのもいい。
それでも、帰る国はただ一つ。
どこで暮らしてもいい。
それでも、想う場所はただ一つ。
「一人で暮らしていくには、まだかかるけど…」
まだ大人ではない。
大人になれない。
それがもどかしくて悔しい。
国府を抜ける頃、颯淳はようやく振り返った。
もう、陽子の姿は見えなかった。
多分、これが最後だろう。
国府へ上がることもないだろう。
そして二度と見ることもないだろう。
陽子の、…景王の姿。
でも、決して忘れることのない姿。
いつの間にか赤く染まった日は沈み、辺りはすっかり暗くなっていた。
(2007/08/30)