台風Girl



side the other3


5.Sakashita and Higuchi

もう少しでフェンスの向こう側だと思ったとき、思いっきり腕と足をつかまれた。

「何やってるのよ、こんな日に!!」
「こんな日だろうと関係ないわよっ。
死にたいと思ったときに天候なんて気にしてられないわ!」

死にたい気分のときに天候なんて気にする余裕なんてないわよっ。
そう思ってつかんでいる人を見下ろす。

「こんな日に飛び降りても多分死ねないよ」

若い男らしい。
冷ややかにそう言った。

「こんな風の強い日に飛び降りても、風で吹き飛ばされるだけで簡単に死ねないような気がする。
どこかにぶつかったりするだけで、案外意識はあるままで。
真っ直ぐに下には落ちないで、ぐっちゃぐっちゃの死体がどこかに落ちて。誰にも見つけられない場所に落ちたりなんかして。
見つけられないままカラスとかのえさになって。
見つかったときには骨だけになって、身元不明とか…」

そういう具体的なこと、今この状況で言わないでほしい。
そう思ったとき、勢いよくフェンスから引きずりおろされた。
どうやらもう一人は看護婦で…。

「坂下さん!!」

そう私の名前を呼んでいるので、おそらく夜勤の入江さんなのだろう。
…いなくなったのがばれて捜しに来たらしい。
止めさえしなければ、きっと確実に私は飛び降りていただろう。
声をかけられることさえなければ、飛び降りることにためらいはなかったのに…!
自然に涙があふれてくる。
生きていてよかったとは今はとても思えない。

「死にたかったのよ!」
「だ、だめに決まってるじゃない」
「どうせがんなのよ!む、胸を切られるなんて…!」
「ちゃんと手術すれば治るんだよ?胸だって、温存の方向で行くって…」
「あたしはっ、あたしはまだ結婚もしてないのに!」

本当は、どうでもいいことをただわめき続ける。
死んでた方がよかったとも思えないけど、今この状況も素直に受け入れられない。
本当に死にたかったのか、生きていてよかったのか、それさえもどうでもいいことのように思えた。


 * * *


泣いてわめく女を前にして、俺はイラついていた。
止めないほうがよかったのか。
何も言わない看護婦を見て、八つ当たりのように笑って言ってやった。

「看護婦さん、何だよ、さっきのいい話、しないのかよ?」

幸せそうに笑って、俺にした話をしてやればいい。
死にたかった人間に、言えるものなら言ってみろよ。
そう思って言った言葉も通じなかったようだ。

「いい話って、そ、そんな」

照れたように口ごもった。
本物のバカだ。

「この看護婦さんはすっげー男と結婚したらしいから、聞けば?
結婚相手の見つけ方でも」

俺の言葉を聞いて、女は更に泣いた。


 * * *


何なのよ、このくそ生意気なやつは!
人が婚約破棄で悩んでるのに、わざわざそういういやなことを言うとは。

「何だよ、うっとーしーんだよ。
目の前で死なれたら俺が悪いみたいじゃねえか。
俺の目の届かねーとこで死んでくれよ」

あんたが止めなきゃ死んでたわよ!
止めるあんたが悪いんでしょう?
いやなら見ない振りすればいいのよ!

私はますます声を張り上げて泣いてやった。
それほど泣く必要はなかったのだけど、なんだか涙を止められなかった。
今まで我慢していた報いかしら。
入江さんはおろおろと声をかけてくる。

「え…と、何が不安なの?」

どれも不安だった。
もちろん説明も受けたし、それなりに納得もしている。
でも、理屈じゃないのよ。

「手術は成功しても、胸には傷跡が残るんでしょう!」

そんなこと、本当は何度も聞いた。
怒りをぶつけてみたかっただけなのだ。
何に対して?それすらも今はよくわからない。


 * * *


女に聞かれても、まともな答えを返せやしない。
勉強不足というより、勉強する気があるのかすら疑わしい。
…なんだかな。

「俺の心臓の手術に比べりゃ残らねえよ」

俺は自分の手術説明を思い出した。
何で俺、こんなバカな看護婦を助けるようなこと言ってるんだか…。
しかも、俺が言ってることを理解してるのか、してないのか。

…バカ丸出しだ。

それでも、急に思い出したように言葉をつないだ。

「そうよ、乳がんは5年生存率もかなりいいし、今の技術なら傷跡を目立たなくしてもらうことだってできるもの」


 * * *


入江さんは、急に生き生きと話し出した。

いくら傷跡が目立たなくったって、それとこれとは別よ。

思わず言い返した。

「でも結婚は別よ!」
「坂下さんて、この間確か婚約者がお見舞いに…」

…何でそこまで知ってるのよ。

「こんな身体じゃイヤに決まってるじゃない!」

もともとは、そういう理由で婚約話がだめになったはずだ。

「イヤ、なのかな…?」

身体が理由じゃなきゃ何なのよ。
余計に惨めじゃない。
逆に言えば、そういう理由だけで別れなければならない私たちの関係は、いったいなんだったのだろう。


 * * *


「聞いてみたら…?」

俺はあいつに直接聞けないでいた。決勝への試合に負けたこと。
倒れたことは仕方がないと言ってくれるかもしれないけど、本当にそう思ってくれるのだろうか。
俺は、自分でもイヤになるくらいのとげのある言葉を投げつけた。

「聞いてみてイヤって言ったら死んでもいいのかよ!」

わかってる、これは八つ当たりだ。
自分以外の誰かが傷つけばいい。
俺はそう思っていた。
もうこれ以上、考えるのはやめようと思うたび、俺は苦しくなる。
俺のせいじゃない。
自分でもわかっているけど、頭のどこかで、俺のせいだという声がする。
バカみたいに俺は立ち止まっている。
少しずつ呼吸が速くなる。

「そんな意味じゃ…」
「じゃあ、どういう…意味だよ。
軽々しく言ってんじゃ…ねえよ…」

頭が少しずつボーっとしてくる。

や、やべぇ…。

違う、これは発作じゃない。
俺は認めたくない。
認めたくないけど、あの発作と同じだ。

「さわ、ぐなよ…。ちょっと、走ったくらいで…」

看護婦は、俺が心臓発作を起こしたと思っている。
少し走ったくらいで出るようなもんじゃない。今までだって散々走っていたんだし、考えればわかりそうなものなのに。
でも、だめだ。
苦しくて話すこともできない。


 * * *


急に、男の子は胸を苦しそうに押さえてうめき始めた。

なに、心臓が悪いの?
冗談でしょう?

入江さんは屋上の入り口に走って行ったけど、夜中は中から鍵が閉まっているはず。
しかも、こんな天気だし、きちんと施錠してあるに違いない。
と思ったら、案の定開いていなかったようだ。
このまま入江さんが誰かを呼びに行ったら、男の子と二人?
それこそ冗談じゃない。
私は入江さんの代わりに誰かを呼んでくることにした。


 * * *


看護婦は、俺の身体を横にしようと強引に引っ張った。

「さ、わるな、よ…」

やっとのことでそう言うと、
「黙って!おとなしく言うこと聞きなさい」
と今までにない剣幕で返された。
どちらにしろ抵抗できるような状態ではなかったので、言われるがまま看護婦のひざ枕状態で横にさせられた。
手が少ししびれていたけど、先ほどよりは息苦しさが落ち着いてきた。
試合のことを考えると発作が起きるなんて、みっともない。
心臓に穴が開いていたのなんて生まれつきなのに。

「少し、落ち着いた?」
「っだよ、何で今頃なんだよ…」

何も、今、この時に悪化しなくても…。

冷や汗がたれてくる。
俺は額の汗をぬぐった。
ぬぐったまま、腕を動かせない。
どうせ生まれつきで、今まで無症状だったのだから。
せめてあと少しだけ、見逃してくれさえすれば。

あと、もう少しだったのに…。

俺は頬に冷たいものを感じて、腕を動かせなかった。

「もうやめてくれよ」

俺の気も知らないで。

「あんたのだんなが主治医だからか知らないけど、関係ないのに人のプライバシーまでかかわんなよ」

俺の見られたくないところまで、入り込むなよ。

「だって、まだ15なのに、生きてるのつまんないって、言うから。
担当じゃなきゃ、死にたそうに屋上ふらふらしてる患者さん放っておいていいの?」

…俺は死にたかったんだ。
何もかも感じないようになりたかったんだ。
物理的な死じゃなくてもよかった。
ただ、これ以上何も感じたくなかっただけなのに。

そうはさせないというように、この看護婦は俺に現実を突きつける。
俺は腕をはずして看護婦をにらみつけた。

「最後の試合だったんだ」

最後の試合にあいつを出したかったんだ。
ただ、それだけだったのに。

「こんな心臓、いらなかったよ」

俺の言葉に何を感じたのか、看護婦はぽろぽろと泣き出した。
まるで俺の代わりとでもいうように、涙をこぼす。

「…何であんたが泣くんだよ」
「あ、れ?ご、ごめん」

自分で気づかないなんて、やっぱりバカなんだな。

「うっとおしいやつ」

そう言ったのに、なぜかうれしそうに笑っている。

「何で笑ってんだよ」
「ああ、だってね。
話せるようになった頃の入江くんに似てるから」

…何だ、だんなの話か。

「いっつもバカにされたけど、結局勉強教えてもらったり、結構ひどいこともいっぱい言われたなぁ」
「それって、本当に好かれてんの?」
「う、うん、多分…」

俺は不意に笑いがこみ上げてきた。

「変な夫婦」


 * * *


非常階段を急いで駆け下りた。
どこから出たのか、暗いので正確には覚えていない。
非常口を見つけるたびに、一つ一つのぞいてみる。
おそらくこの辺りの階だと思っていたところに、ひどくイラついた声が聞こえてきた。

「本当にあのバカは…。
いつも迷惑をかけているようで…」

私は構わず開いている扉から中に飛び込んだ。

「坂下さん?!」

主任さんが驚いたように言った。
もう一人は誰だろう。

「男の子が…!倒れて…屋上で、入江さんが付いてて…それで…」

さすがの私も息が切れて、そう言うのがやっとだった。
ただ、背の高い男の人は全部を聞かないうちに非常口を出て行った。

「ありがとう、坂下さん。
いなくなっていた件は、後で聞きます。取り合えず、お部屋に戻っていてください。
今度は、出歩かないでくださいね」
「あ、あの、私…」

言おうかどうか迷ったけど、なんとなくこの勢いでは入江さんまで怒られそうだったので。

「助けられたんです、入江さんに」
「…そう」

主任さんはただそう言って笑った。

「大丈夫よ。先ほどの方は男の子の主治医だから」
「苦しそうだったので…」
「入江先生なら大丈夫でしょう。それに、入江さんも付いているんでしょう?」
「え?ええ」
「それなら、大丈夫…。あら、早く行かないと入江さん怒られてるわね、きっと」

あの、ドジで有名な入江さんがいるから大丈夫というのにも驚いたけど、何で入江さんが先生に怒られるのかよくわからなかった。
主任さんは非常口を出て行きながら、その疑問の答えをくれた。

「入江さんの、だんなさんなのよ」

…ああ、なるほど。「入江先生」か。
だから「あのバカは…」なんだ。
なあんだ。そうなのか。

私は先ほど見た男の人が、あまりにも血相を変えて出て行ったので、てっきり男の子の具合が凄く悪いからだと一瞬思ったけど、それなら主任さんがもっと慌てるはずだしと思い直したのだ。
どうやらそうではないらしく…。

ふふふ…。

私は込み上げてくる笑いを押し殺しながら、病室へ戻った。


6.Docter

新しく患者を受け持った。
名前は樋口直紀、15歳男。
俺と同じ読みなのが少し気になる。
病名は心房中隔欠損症。少し肺動脈圧が高い。
サッカーの試合中に心臓発作を起こしたらしい。一時的な心悸亢進による意識消失発作と思われる。

「何で…?」
「樋口くん、ここは斗南大学付属病院。
君はサッカーの試合中に倒れたんだ。それは覚えてるね?」

俺は患者に短く状況説明と、駆けつけた母親共々病状説明を行った。
母親は突然聞いた病名に驚いていたが、今すぐ命にかかわるようなものではないことに安心したようだった。
患者自身は驚きもせず、泣きもせず、ただ無表情だった。
病名自体はあまり気にしていないようだった。
入院して手術を受けたほうがいいことを告げると、短く「そう」とだけ答えた。
前から少しずつ症状は出ていたことを聞き出すと、それを聞いた母親は泣きながら言った。

「小さな頃から、人を頼るのが苦手らしくて…。
いえ、わが子ながら学校の勉強はできますし、運動もできるようです。
そんなことよりもっと大事なことがあるとは思うんですけどねぇ…」

少しその患者に親近感がわいた。
昔の俺もそんな感じだったから。

夏休みということもあり、小児外科は忙しい。
夏休みを利用してさまざまな手術の予定が組まれるからだ。
手術室の予定をやりくりして何とか計画が立てられた。
肺動脈圧が少し高いことを考えると、手術を先延ばしにはできなかった。
手術まであと3日というところで、突然コールがあった。
発作かと心電図を見てみれば、そうではなかった。
もともとあの病態での発作はむしろ出にくいと考えたほうがいい。
かなり呼吸が速く、手がしびれて、意識がボーっとなるのを見て、
俺はとっさに手近にあったビニール袋を患者の口に当てて呼吸させた。
思ったとおり症状はすぐにおさまった。
ハイパーベンチレーション(過換気症候群)、いわゆる過呼吸だ。
過呼吸の説明をすると、患者は嫌そうな顔をした。
心理的要因と言ったのが気に入らなかったらしい。
実際若い女性に多かったりするが、倒れたりすることもあるので、発作が起こるとやっかいではある。
しかし、そのむくれぶりがおかしかったので、俺はなんとなく頭をくしゃっとなでて病室を出て行った。

その夜は台風が接近していて、翌日も手術を控えていたため早めに帰宅した。
同じ病院で看護婦をしている妻の琴子は、入れ違いで夜勤に行くために準備をしていた。

「出かけるの嫌だな…」

外の様子を不安げに見つめながらそうつぶやく。

「どうせ来るの夜中過ぎだろ?それほど雨も降ってないし、さっさと行けよ」
「い、入江く〜ん、一緒になんて…」
「行かない。ほら、行ってこい、遅刻するぞ」
「だって〜」

琴子はしぶしぶと玄関へと向かった。

「琴子ちゃん、大丈夫?こんな日は休めればいいのに」

そう言ったのは、いつも能天気な俺のおふくろだ。

「天気ごときでいちいち休まれたら病院が迷惑だ」
「お義母さん、大丈夫ですよ〜」

琴子もさすがに休むとは言わない。

「お兄ちゃん、せめて送って行ったら?」
「あ、入江くんは明日手術があるから…」
「タクシーわざわざ呼んであるんだよ」
「だからって!」

俺が鋭い視線を向けるとおふくろはしぶしぶあきらめた。

「…琴子ちゃん、くれぐれも気をつけてねっ」
「はい、行ってきます」

タクシーに乗り込んで走り出したのを見届けると、俺は部屋にこもった。
明日の手術についてもう一度見ておきたい箇所があったからだ。
夜中近くになって風呂を済ませて出てくると、電話が鳴った。
こんな時間にかかってくるのは俺以外にはないので、電話を取ると案の定病院からだった。
しかも、電話の内容はあの患者の姿が見えなくなったので、皆で探しているが見つからないということだった。
小児科の中ではかなりぎりぎりな年齢だったので、どこかで夜更かししていることも考えられるが、手術まであと3日というところで風邪でもひかれたら困るし、どこかで発作が起きて倒れているかもしれない。
俺は仕方なくもう一度タクシーを呼び、病院へ駆けつけることとなった。
願わくば、何事もなく無駄足ですむようにと祈りながら。

病院に着いて事情を聞くと、見回りの時にはすでにいなかったらしい。
今日は様子がおかしかったので注意はしていたが、こんな天気で泣き出す子が多くてつい後回しになっていた、と。
同じ階の外科病棟のほうを回ると、夜勤でいるはずの琴子はいなかった。

「あ、入江先生。
小児科でも患者さん行方不明なんですって?」

電話をしていたらしい清水主任が言った。

「…でも…って?」
「あ、うちの病棟でも一人行方不明が…」
「まさか琴子じゃないですよね?」

俺の問いに清水主任は笑った。

「いえ、違いますよ。
入江さんは、開いていた非常口から患者さんを捜しに行ってもらっています」

少しほっとしたものの、一抹の不安はよぎる。

「こちらの患者もそこから出たということはないですか?」
「あら、そうかもしれませんね。
今日はこんな天気で守衛さんも他の見回りが忙しいらしくて、手のあいた者で捜すしかないんです。
…でも、少し遅いわね、入江さん」
「…何時くらいに行ったんですか?」
「もう30分も前に…。
あちこち電話してたらそんなにたってたのね…」

俺は清水主任と顔を見合わせて、お互いの不安点が一致することを確認した。

「…どこの非常口ですか?」

清水主任と一緒に非常口へ向かった。
歩くうちについつい早足になる。
あいつのドジはいまさらだが、それに付き合わされる患者はたまったものじゃない。

「本当にあのバカは…。いつも迷惑をかけているようで…」

ついそう憎まれ口を口に出した。
いつもいつも俺を心配させてばかりいる。
当の本人は、そんなことまるでわかっていないかのようだ。
清水主任にはわかっているようで、薄く微笑みながらも何も言わない。
非常口から慌てて駆けこんできた人がいた。

「坂下さん?!」

どうやら外科病棟の患者らしかった。
最近の入院だったらしく、顔にまだ見覚えがなかった。

「男の子が…!倒れて…屋上で、入江さんが付いてて…」

俺は最後まで聞かずに非常口から飛び出した。
思ったとおり、琴子は患者と一緒にいるらしい。
なぜか琴子は、普通巻き込まれなくてもいいトラブルに、必ずといっていいほどかかわっている。
…俺はだいぶ慣れたけど。
おそらく琴子の友人たちもあきれつつ、そんな状況に慣らされたに違いない。
多分、この清水主任もそんな中の一人だろう。
それでいて周りに見捨てられることがないのは、俺にはない琴子の性格ゆえなのか。
非常階段を上りきった屋上のフェンス際で、患者をひざ枕している琴子を見つけた。

「琴子!!」

そう声をかけると必死な様子で手招きをした。
ひざ枕をしているせいで動きたくても動けないらしい。

「脈は?」

横になっている樋口くんの身体を診てみると、心臓の動きはほぼ正常だ。
どうやらまた、過呼吸の発作か。

「家から来たの?髪、濡れてる…」

なぜか琴子は他のことにはちっとも気づかないくせに、そういう微妙なところで目ざとい。

「病室にいないから連絡受けて。こんな天気だし。
樋口くん、発作じゃないようだね」
「だから大丈夫だって言ってんだろ」
「だって、走った後苦しそうにしてたから」
「ハイパーベンチレーションだな」

そう言っても琴子にはさっぱりわからないらしく…。

「過呼吸だよ、若い子に多いやつ」

そう言ってようやくわかったようだった。

本当にわかったのか?
いつまでもへらへら笑ってひざ枕してんじゃねえよ。

樋口くんをさっさと立ち上がらせると、部屋に戻るように言った。
途端に俺は琴子を心配していた気持ちがよみがえった。

「このバカ!!発作起こしてないからよかったようなものの、患者見つけたらさっさと一緒に戻ってこい!」
「だ、だって、いろいろあって…」
「お前はいつもいつも…」

…本当に心配させやがって…。
もう一言言ってやろうかと思ったとき、後ろから清水主任の声がした。

「入江先生、その辺にして戻りませんと」

取り合えず怒鳴るのはそこでやめて、非常階段へと向かった。
清水主任は琴子に…いや、俺に向かって言った。

「坂下さん、助けられたって」

先ほどの坂下という患者は、どうやら屋上で何かやっていたようだ。
俺に怒鳴られて下を向いている琴子を見ていたら、少しは看護婦らしくしていたことをほめてやろうという気分になった。
清水主任が非常口から中に入るのを待って、俺は琴子の耳元で言った。

「おれの患者、助けてくれて、ありがとな。
あまり、心配かけるなよ」

琴子の頭をそっとなでたら、途端に顔をほころばせて抱きついてきた。

「入江くん!!あたし、少しは役に立ったかな?!」
「オイ、夜中だぞ、静かに…」

何でこいつはこうも単純なんだか。

「…い・り・え・さん…」

響いた声に気づいた清水主任が、手を腰に当てて立っていた。
今度は清水主任に説教を食らっている。

…ほんと、あきねぇな。

「じゃ、そういうことで、おれは患者の様子見て帰るから」

これ以上いると琴子の仕事も進みそうにないので、明日も手術だからと言ってさっさと小児科のほうへ引き上げた。


To be continued.