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トイレに行ったはずの智子が帰ってこない。
一人でロビーで待ちながら琴子はきょろきょろとあたりを見渡す。
もしここで呼ばれても行く準備はできているが、智子を置いていってもいいのだろうか、と。
元々は智子が受けてきた案件で、琴子はおまけだ。
おまけがメインの話をしても構わないのだろうか。
そんなことを思って待っていると、ロビーの奥で何やら騒ぎが起きている様子だった。
皆が一斉に奥へと駆けていく。
琴子も野次馬根性が勝って同じように走ってついていった。
普段セキュリティで通れないはずの場所も皆が一斉に通るので難なく通り抜けた。
誰も咎めはしないので勝手にオッケーだと思って先に進む。
やがてフロアの奥で大きな声がする方へ潜り込むと、何故かそこに智子がいた。
何故そこにいるのかはわからないが、これで事情がわかるかもしれない、と智子を呼んだ。
「小倉さん!」
智子は明らかに怯えていた(ように見えた)。
いったい何が、と思った琴子の耳に聞こえたのは、この会社に訪問した別会社の社員が部屋に連れ込まれそうになったという話だった。
まさか、智子がそうだとは言っていなかったが、多分そうだと琴子は思いこんだ。
事実はともかく、実際状況だけ見れば間違いはないのだが。
「何てことを!」
琴子は野次馬をかき分け、智子のところまで到達した。
「私、こちらの被害者と同じ会社の者です!」
琴子の言葉にその場にいた者が琴子に注目する。
「小倉さん、私が来たから大丈夫!」
何か使命感に燃えている琴子だったが、何が大丈夫なのかは誰にもわからない。
周りの者はきっと何かすごいことをしてくれるのだろうと期待した
「なぜこんなことになったのか、知っていますか」
警備員に聞かれ、琴子は首を傾げた。
「えーと、小倉さんがトイレに行くと言われ、見送ったのですがなかなか戻らず、心配していたところにこの騒ぎが…」
全く何も知らねぇじゃねぇか、という周囲の期待外れの視線に琴子は委縮しかけたが、ここは頑張らねばと胸を張った。
「知らないけど!小倉さんは見た通りかわいらしくて、出会った人がちょっとお話したいとかいう衝動に駆られるんですよ!だって、総務のアイドルですから!あ、天使だったかな?」
その恥ずかしい呼称はともかく、なるほど見た通り確かに連れ込みたくなる容姿をしているかもしれないと周囲の野次馬は思った。
「ですから!小倉さんは悪くないと思います!それに、せっかく商談に来たというのにこんなことをされるとは、御社の教育がなってないんじゃありませんか!」
まあ、そうとも言えるかも、と周囲はうなずく。
「それに、お約束した時間をもう三十分も過ぎているのに一向に現れない担当者のせいでもあります。弊社は、この件をしかるべきところに訴える権利があります!どうしてくれるんですか!」
それを聞いて周囲の野次馬はとばっちりが来ないように散っていったのだった。
智子は思わぬ援護射撃に少々驚いていた。
まさかここまで頑張ってくれるとは思わず、やはり予測のできない人だと琴子を連れてきて良かったと思ったのだった。
そして、どこからか連絡が入ったのか、担当者だと思われる者が慌てて駆けつけてきた。最後の三十分も、の辺りから聞かされたのか、少々ばつの悪い顔をして。
「ええっと、その、今回は大変お待たせして…」
「三十分くらいはよくあることですのでこちらとしても川に流そうと思っておりましたが」
かわ?…ああ、川か、と気づくまでに時間がかかった。聞き慣れなくて。
時々、琴子の言葉はなぞかけが多いと感じていた智子だったが、相手はややテンパっているのか気づいていないようだ。
何より川と聞いたことで、頭の中では桃がどんぶらこと流れていく始末だ。
どうにも緊張感が足りなさすぎる、と智子は笑いをこらえた。
「今回は、このまま帰りましょう、小倉さん」
智子の用事は終わった。
長居は無用だ。
しかし。
「申し遅れました。私、お約束していた株式会社パンダイ総務部所属、小倉と申します」
一応自己紹介をして名刺を差し出せば、担当者は慌てたようにポケットから同じように名刺を差し出してきた。
今回は商品の売込みではないので、という前提だったが、さすがに総務部という肩書に目が注がれている。
「今回はこのような有様で、大変申し訳ありませんがこちらで用意させていただいた資料だけお渡しして失礼したいと思います」
何もせずに帰るのも余計なことを疑われるきっかけになるものだ。
本来ならここは名乗るほどでもないのだが、これをきっかけに以降の商談で有利に持っていくための布石でもある。
「それで、そちらの方は」
智子の後ろで護衛のように見張っている琴子が名刺を渡しながら「アシスタントです」と胸を張った。
「そうですか」
あまり触れないほうが良いのだろうと担当者は見て見ぬふりをした。
思ったよりも危険なものに対する嗅覚はあるようだ。
智子が危険じゃないのかと言われれば、目標でない人物に対しては極めて安全なはずである。
何せ見た目は総務部の天使と言われるくらいの華奢ぶりなのだ。
そこまで自覚をしたわけではなかったが、皆にそう言われればそのように振舞うことも厭わない。
お仕事に生かせると思えばこそだ。
「資料を」
「はい!」
琴子に持たせているカバンに目をやると、琴子が張り切ってカバンの中をあさる。
他の物はすべて置いてこさせたので、カバンの中は茶封筒に入った資料しかないはずだった。
なのに、何故いろいろと出てくるのだろう。
おそらく途中でもらったティッシュにチラシ、この会社に入ってからもらった名刺。
それでも茶封筒にすべてまとめて入れておいたのが功を奏したのか、「これでございます」と差し出した。
そこまで下手に出なくてもよいのだが、アシスタントに徹しているのだろう。
「こちらの資料を一度ご覧ください。そして、また後程ご連絡させていただきたいと思います」
資料を渡して微笑めば、こくこくと担当者はうなずいた。
どちらにしても連絡しようがしなかろうが、パンダイにとって損になることは何もない。
今回の仕事はパンダイにとってお試し程度のものだ。
本来の仕事を終え、智子にとっての用事は終わったのだから。
* * *
騒動を起こした後の会社を出ようとすると、受付は何か言い含められたのか丁寧にあいさつをして見送ってくれた。
「小倉さん、挨拶だけでよかったんですか?もっとこうぎっちりと締めて慰謝料取るとか」
琴子は思い出したように拳を握っている。
「ええ。せっかく来ていただいたのにごめんなさいね」
「いえ、あたしは全く。その、ご指名いただいたのに役に立たなくて」
「いいえ。心強かったわ」
「そうですか!よかった!あ、そう言えば待っている間にいろんな人に名刺をもらったんですけどね」
そう言えばカバンの中からいくつか出てきたのだった、と思い出した智子が、琴子が差し出した名刺を確かめると…。
「えーと、琴子さん。どうして支社長の名刺を?」
「この間九州行きのエアラインでお会いしたのを覚えててくださってて」
「…なるほど」
詳しいエピソードはあえて聞かないことにした。
「こちらの専務の名刺は」
「そちらは、昨日レストランでお会いしたんです。その時はどこの誰とも言わなかったので知らないままお話していたんで、改めてロビーでお会いしたから名刺をいただいて」
「…なるほど」
何故会ったのか、詳しく聞かなくてもわかる。副社長のお供だろう。
どうやら受付が丁寧にあいさつをしていたわけは、琴子が支社長と専務と気軽にあいさつを交わしていた人物だったから、らしい。
「…なるほど。さすが琴子さん」
「やだー、小倉さんのほうこそきっと担当者は連絡を心待ちにすると思いますよ!私たち、ちょっとは役に立ったかもしれませんね!あ、小倉さんにはお辛い出来事だったかもしれませんが」
「いいえ。琴子さんのお陰で助かったわ。私のこと、智子って呼んでください」
「えー、いいんですか?じゃ、じゃあ、と、智子」
「はい。また、今度私を手伝ってくださいね」
「ええ、もちろん」
「あ、でも、私の後ろに立っては、ダメよ」
後ろから近づこうとした琴子にくるりと振り向いてくぎを刺す。
にっこりと笑った智子に、琴子は背筋を伸ばして「ひっ」と声を出した。
(2025/11/24)
To be continued.