10
辺り一体が薄暗くなる中、激しく降る雨の音だけが響いていた。
社殿の屋根を叩きつける雨は庇を伝って下に流れ落ちる。
遊佐が誘導した場所はそんな土砂降りの中でも雨が跳ね返ることもなく、四人を十分に雨宿りさせてくれた。
それでも身を縮めて雨が止むのを待っていると、稲光とともに轟音が響いた。
「カ、カミナリ…」
身をすくめて琴子がつぶやいた。
隣ではさりげなく裕樹が耳を塞いでいたが、琴子も雷は苦手なのでからかう気にはなれなかった。
もう一方の隣には直樹が座っていたのが琴子には心強かった。
何となくうれしくて直樹を見上げると、同じように直樹が琴子を見下ろした。
目が合って琴子は微笑んだが、直樹は琴子に気付くと目をそらした。
それでもただ足を抱えて座っているだけで、隣から伝わってくる微かな体温がうれしくて、琴子は自然と笑みが浮かぶのだった。
「すぐ、止むよね」
裕樹が塞いでいた耳を外して、隣にいた遊佐に聞いた。
「そうだね、多分」
「遊佐さんは、どうしていつも湖のほうに来るの」
「いろいろ捜すものが多くて」
「ふーん」
そんな会話を交わしたりしているうちに、雨は少しずつ小降りになったようだった。
「止まなかったら、どうしよう」
「ぬれるのを覚悟で帰るしかないかな。大丈夫、帰りもちゃんと送り届けるよ」
遊佐はそう言ったが、琴子はもう少しこのまま待っていたい気もしていた。遊佐には悪いが直樹とこんなふうにゆっくり過ごせることもあまりないことだからだ。
二人でぬれた体を温めあって(今回誰もぬれていないが)、救助を待つ二人…(いつの間にか遭難になっている)と、そこまで妄想したとき、不意に耳元で声が響いた。
「…またくだらない妄想してるんだろ」
ぼそりと直樹が言った。
「え…。し、してないよ」
それまでほとんどしゃべらなかったので、琴子は驚いて直樹を凝視した。
直樹にしてみれば、先ほどまで不安げな様子で、しかも雷に怯えていた様子もあった琴子が、見事に恍惚とした表情になるのだから、この女だけはわからないとため息をついた。
「やっとしゃべってくれた」
それでも琴子はうれしそうに小さくつぶやいた。
雨は小降りながらも降り続けるが、一時は暗かった空模様も随分と明るくなった。
「いつまでもこうしているわけにいかないけど、日暮れまではまだあるし、どうする?」
遊佐の声に他の三人ははっとした。
先ほどとは違い糸のように細く降る雨に目を奪われていた。
雨が降ったせいか蝉の鳴き声はいつの間にか止んでおり、雨が木の葉を伝って滴る音すら聞こえるくらいの静寂さだった。
その静けさを破るように遠くから砂利を踏みしめる音とエンジンの音が聞こえてきた。
車かと気付いたとき、神社の入り口のほうから4WDの車が入ってきた。
砂利を蹴散らして車が止まると、中からあの管理事務の犬神が現れた。
「そこにいるのかい?」
社殿のほうへ駆けながらそう声をかけてきた。
自分たちを捜してここに来たのかどうかすらわからず、どう答えようかと迷った挙句「四人います」と遊佐が答えた。
「入江家の奥さんから電話があって、雨で帰れないでいるかもしれないから様子を見てきてほしいと言われて」
「お手数かけましてすみません」
直樹が丁寧に言った。
「いや、私も途中ですれ違ったのは知っていたから、心配になってね。
奥さんは代わりに最寄の駅まで誰かを迎えに行ったようで。電車も途中で止まってなければいいんだが」
「あ、お父さんか…」
琴子が思い出したように言った。
「このまままだ降り続けるかもしれないから、車で送るよ」
「ありがとうございます」
琴子が頭を下げると、同じように裕樹も頭を下げた。
「君は…とりあえず管理事務所まで送れば傘もあるし、後でもよければ街まで送るよ」
犬神が遊佐に向かって言った。
「あ、お構いなく」
遊佐は手を振って答えたが、犬神は眉をひそめて言った。
「いや、道がぬかるんでいるから、遠慮しないで。
どうも雷のせいで停電したらしくて、今は別荘を順番に回っているところなんだけど、電話もちょっと通じにくくて上手く連絡が取れないくらいだから」
「そうなんですか。あの雷は近かったですからね」
「さあ、車は五人乗りだから大丈夫。乗って、乗って」
四人は促されて犬神の車に乗り込むと、車は神社の鳥居を抜けて砂利道へと進みだした。
「あの、お名前、犬神さんじゃないんですか」
そのものずばり、乗り込むなり琴子が聞いた。
「え?あ、ああ、それね。うちは現在犬神神社の氏子代表で、何かというと神社の世話係みたいなものだから、通称犬神と呼ばれてるんだよ。
奥さんも面白がってそう呼ぶもんだから、本来の名字忘れちゃったんじゃないかな。
ちゃんとした名字は
「はあ、そうなんですか」
犬神の謎は解けたといわんばかりに琴子はうなずいた。
「犬神でも刑部でもどちらでもどうぞ。
もっとも管理事務所の職員にはちゃんと刑部と言わないと通じないかもしれませんが」
「はあ、それで…」
「おまえさっきからずっと間抜け面だぞ」
隣にいる裕樹も同じように納得した様子だが、琴子があまりにも呆けた様子でうなずくのを見ると、他人とはいえ一緒にいるのが恥ずかしくなる思いだった。
「裕樹くんだって青い顔して怖がってたじゃない」
「べ、別に怖がっては…」
「さっきだって雷の音が怖くて耳を塞いでたでしょ」
「近くてうるさかったじゃないか」
「へー、そう?」
「おまえだって」
後ろの座席で並んで騒ぐ琴子と裕樹にしびれを切らして「少しは静かにしろ」と同じく後ろの座席の直樹が怒鳴った。
「はぁい」
「ごめん、お兄ちゃん」
さすがに直樹に注意されて二人が黙ると、犬神改め刑部が楽しそうに笑った。
「ははは、素直じゃないですか。
ところで、神社はどうでした?何か目新しいものでも?」
「いえ、特には」
そう答えた琴子を遮るようにして直樹が言った。
「あの神社の由来、かなり変わってますよね」
「あ、ああ、そうですね」
戸惑ったように刑部が答えた。
「地方に伝わる犬神の話かと思えば、全く違うようですし」
「犬神はあくまでこの地に伝わる名称の一つであって、由来とはまた別物だと思いますよ」
「ではやはり鬼頭と呼ばれる湖を鎮めるためと考えてもいいんでしょうか」
直樹がそう聞いたとき、車はちょうど管理事務所の手前にたどり着き、会話が途切れた。
助手席に乗っていた遊佐が「本当にここで結構です」と断って降りた。
「事務所で傘を貸してもらいなさい。都合のいいときに返しに来ればいいから」
刑部は窓を開けて言った。
小降りの雨にぬれながらも、遊佐は頭を下げた。
「ありがとうございます。まだ止みそうにないのでそうさせてもらいます。
じゃあ、琴子さん、入江くんご兄弟も、縁があったらまた。お弁当ごちそうさまでした。
中途半端な案内で申し訳なかった」
「遊佐さん、ありがとうございました」
琴子も慌てて窓を開けて言った。
お互いに手を振ると、車は別荘に向かって走り出した。
それほど時間はたっていないのに、長い時間一緒だったような気がしていた。
ぼんやりと外を眺めているうちに車はゆっくり別荘への道を上り始めていた。
湖が見え出したところで琴子は先ほどの直樹の言葉を思い出したが、直樹が何も言わないので琴子も何も言わなかった。
近くで見る湖は穏やかで、鬼の頭に似ているという形は全くわからない。山の上から見たりすればそんなふうに見えるのだろうかと思ったが、わざわざ確認しにいく必要はないので、そういうものだと納得することにしたのだった。
別荘にに近づくと、車はゆっくりと止まり、まず刑部が確かめに降りていった。
「奥さんはまだ帰ってきていないようですね」
入江家が乗ってきた車は別荘前には見当たらない。
小雨も降っていたが、琴子と直樹も降りて別荘の玄関に行く。
「誰もいないのかな」
琴子がドアを叩いて確かめるが、鍵がかかっているようだった。
「おやじもいないのか」
「一緒に出かけたのかな」
「…無責任な」
直樹が舌打ちをして別荘の坂下を眺める。もちろんそうしていても紀子たちがすぐに帰ってくるわけではない。
「鍵があるからよければ開けましょう。奥さんにはそう頼まれているから」
「ではお願いします」
裕樹も心配そうに車から降りてきたが、刑部が別荘のドアを開けるとほっとしたように中へ入っていった。
刑部は「ちょっと失礼」と言ってあれこれブレーカーをいじっていたが、「うーん」とうなって腕を組んだ。
「やはり停電してるね。復旧はいつ頃になるか問い合わせるしかないかな」
「自家発電か何かないんですか」
「もちろんありますよ。でも、それを今から使ってしまうと夜が困ることになると思うので、明るいうちは控えたほうがいいかもしれません」
「子どもさんたちだけで申し訳ないが、一度戻って報告してきますよ」
「わかりました。こちらは大丈夫です。両親もそのうち帰ってくるでしょうし」
直樹の言葉にうなずいて、刑部は別荘を出て行った。
電気のつかない別荘の中は薄暗かったが、幸いまだ日暮れには時間もあり、真っ暗というわけではなかった。
三人は何をするというわけでもなくダイニングのテーブルに座った。
「お茶、飲もうかな」
そう言って冷蔵庫を開けた琴子だったが、冷蔵庫の電源も切れてることを確認すると、少しだけため息をついた。
持って帰ってきた弁当のバスケットを広げて片づけを始めると、少しだけ元気が出てきた。
何かやることがあるというのはありがたい。
かえって裕樹はテーブルに肘をついて手持ち無沙汰にしている。
直樹はそばにあった雑誌を広げ、何事もなかったかのように言った。
「琴子、コーヒー」
「わかった。待っててね。あ、でもコーヒーメーカーじゃないから…」
「いい。インスタントでも何でも」
「うん、じゃあ待っててね」
琴子は洗い物の手を止めてお湯を沸かし始めた。
機嫌よく鼻歌まで出だして、いつもと変わらない風景が別荘の中に戻ってきた。
裕樹はほっとしたように「僕、疲れたから部屋行ってるね。ママが帰ってきたら教えて」と二階へ上がっていった。
キッチンにコーヒーの匂いがあふれる頃、ようやく雨が上がった気配がした。
湖は変わらず穏やかだったが、今日は沈む日が当たることもなく、ゆっくりと暮れていくようだった。
琴子と直樹は外を眺め、湖が暮れるまで黙って見ていた。
(2011/08/21)
To be continued.