悪戯奇譚



15


「琴子ちゃん、さあ、もうお入りなさいな」

紀子の声がして、琴子ははっとしてようやく別荘の中へ戻った。
先ほどの暗闇とは違い、眩しいほどの灯りだったが、琴子はなんとなくさみしい気もしていた。
「ところでうちのお父さんは…」
「さあ、もう着くと思うんだけど、どうかしらねぇ」
「電車も遅れたって連絡あったらしい」
直樹がさも疲れたというように首を回しながら冷蔵庫からお茶を取り出した。
管理事務所に汗だくで着いたそのとき、刑部は随分と心配していたようだった。
停電も済んだというのに電話もいまだ通じなかった入江家別荘に今まさに見に行こうかとしていたようだった。
そこへ汗だくの直樹が駆け込み、事情を悟ると、これは誰かの策略だと直樹はやっと気がついたのだった。
「…ぬるっ」
コップに注いだお茶を一口飲んでそう言ったが、紀子はそんな直樹を押しのけて冷蔵庫の中をチェックしている。
「電車どころか、パパが運転してるから、途中で道に迷っていないか心配だわ〜」
それならなんで行かせるんだ、と言いたげな直樹の視線もものともせず、紀子はあらかたチェックし終わると、早速夕飯の準備を始めた。
「遅くなったから、簡単なものでいいわよね。パパも何か買ってきてくれるって言ってたし、相原さんも魚を見繕ってくるって言ってたし」
「あ、手伝います」
「そう?じゃあね…」
紀子を手伝い始めた琴子を横目に見て、直樹は二階へ上がることにした。
全く、一体どこの誰が好き好んで何時間も倉庫で息子と知り合いの娘が怖がるのを観察するというのだろう、と直樹は怒りながら部屋を開けた。
部屋の中には裕樹が机に向かって何かを書いていて、いつもどおりのような光景だった。
「ママったらさ、倉庫の中で聞き耳立てて、ずっと部屋の様子をうかがってたんだよ」
それを聞いて、どこか近くから聞こえていた物音は、多分紀子だったのだろうと直樹は思った。
それでも、何かの動物がいたのは間違いないとわかっている。
そして、偶然とはいえ、遊佐が別荘近くまで来ていたことが何故だか直樹には気に入らなかった。
「遊佐さんは何でこっちのほうに来たのかな」
突然そんなふうに裕樹がつぶやいたので、一瞬口に出して言ったのかと思った。
「…さあね」
遊佐の祖母が徘徊癖があろうがなかろうが、直樹には関係ないとそれ以上何も言わなかった。
ただ単に気に入らないだけなら、何もこんなふうに考えることはない。
思考を切り替えようとしばらくベッドの上に寝転がってうとうとしているうちに、車の音がした。
ようやく重樹の運転する車で重雄が着いたようだった。
どうせこれからまたパーティとでも称して夜中まで騒ぐのだろう。これならそのまま停電していてくれたほうが気が楽だったに違いないと直樹はあくびをしながら起き上がるのだった。

 * * *

翌朝、入江家の別荘の中で一番早く起きたのは琴子だった。
コーヒーだけセットして、琴子は別荘を出た。
いろいろ考えていたらなかなか眠れなかったにもかかわらず、朝も早くから目が覚めてしまったせいだった。
昨夜とは違い、天候も回復して鳥のさえずる音も聞こえる朝は、いかにも散歩日和だった。
それでもすぐには湖の方へ行かず、昨夜は行かなかった家の裏に回ることにした。
何か動物がいたのなら、もしかしたらそれは遊佐の飼っていたサルかもしれないと一晩中気になっていたのだった。
サルがどうしたのか、あの後は聞きそびれてしまったが、どうやらサルは逃げ出しているらしい。それも別荘の周辺にいるらしい。
その理由はわからなかったが、琴子には踏み込んで聞いてはいけないような気がしていた。
湖に向かって涙ぐんでいたように感じたのは気のせいだったのか、それも気になっていたのだった。
家の裏側に回る途中、はたはたとはためくビニールシートがあった。
これは冬場の薪を保存するためのものらしく、琴子は興味本位でシートの中をのぞいた。

「うわっ」

シートの中から何かが飛び出してきた。
琴子は思わずしりもちをついてしまい、昨夜の雨で湿っていた地面でスカートを汚してしまった。

「な、に?」

辺りを見回すと、そのシートの上にちょこんとサルがつかまっていた。

「…遊佐さんの…サル…?」

立ち上がり、思わずサルに手を伸ばした。
野生のサルならば引っかかれたり噛み付かれたりする被害も聞いてはいるが、そのサルはとても野性には見えなかった。
「ぷぷっ、トラ柄の…服着てる」
サルなのにトラ柄というところがおかしくて、琴子は笑いながらサルに向き直った。
笑ったのが気に入らなかったのか、サルは琴子の伸ばした手には目もくれずに大きくジャンプすると、シートから飛び去っていった。
「あ〜あ」
サルが去っていった方にまだ未練がましく目を向けていると、湖のほうで何やら声がした。
琴子は急いで走っていくと、小道に一人の老婆がいた。

「…おはようございます」
何故こんな早朝から、と思う間もなく、老婆はサルを肩に乗せて歩いていく。
よく見ると、あの石碑で「たたりだ〜」と叫んだ老婆ではないだろうかと気付いた。
「あ、あの〜」
思い切って話しかけたが、老婆は頓着せずにすたすたと歩いていく。
「あの、おばあさん!」
琴子の声がやっと聞こえたというふうに振り向いた。
そうか、おばあさんだから耳が遠いのかもしれないと琴子は思い直して、できるだけ大きな声で話しかけた。
「そのサル、おばあさんのサルなんですか」
「………」
「もしかして、遊佐さんのおばあさん?」
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるよ」
琴子はだったら何ですぐに返事をしてくれないんだろうと思ったが、不躾に話しかけたのはこちらのほうだと気がつき、黙って返事を待った。
「これは一郎のサルだね」
「一郎…?」
「…名前知らないのかい」
「…あ、そうか、遊佐一郎でした」
…頭の鈍い子だね
「はい?」
「いや、なんでもないよ」
「昨日は遊佐さんもおばあさん捜して大変だったみたいですよ」
「…ああ、そうかい」
「そう言えば、聞きたかったんですけど、あの石碑って、触るとたたりがあるんですか」
「…たたり」
「だって、おばあさん、たたりだーーーーって叫んだじゃないですか」
「そりゃ人が建てた石碑を勝手に触られればついそうやって叫びたくなるじゃないか」
「でも、たたりだ、はあんまりですよ。あたし、その後怖くて怖くて…」
「…怖くて、かい………」
「そうですよ」
「今は怖くないのかい」
「ええ。だって、神社にお参りしてきたし、入江くんもあたしもたたりらしきことなんて一つもないから。それにあの天才の入江くんが言うんだから間違いないって思うもの」
「まあ、怖がるのは勝手だけどね。あの石碑には余り他人には意味ないさ」
「そうなんですか」
「そうだよ。あれはあたしが安産祈願に建てた石碑だからね」
「あ、安産祈願…?」
「石碑の字、読めなかったかい?」
「えー、安の字って、安産祈願のことだったんですか」
琴子はもっともらしく江戸の終わりのなんたらという時代のものかもしれないと言っていた裕樹の言葉にすっかり騙された気分だった。しかもすご〜いと尊敬までしていた。
「なんだ〜」
すっかり安堵して琴子は息を吐いた。
「それじゃ、気をつけるんだよ」
そう言って、老婆はすたすたと軽快な足取りで湖の小道を行ってしまった。
「ありがとうございました〜」
琴子はすっかり見えなくなった老婆とサルを見送って、すっきりした疑問を早速知らせようと別荘の中へ戻った。
ようやく起きてきた裕樹と直樹に無理やり事の顛末を語って聞かせ、そんなの嘘だ!と主張する裕樹をここぞとばかりに鼻で笑うのだった。

(2011/09/05)



To be continued.