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琴子は遊佐にサルについて話したかったが、家も知らないことに気付いてがっかりしていた。
管理事務所の刑部に聞けば教えてくれるかもしれないが、またあそこまで歩いていくのも少し面倒だと思うと、午前中をだらだらと別荘の中で過ごした。
重樹と重雄はゴムボートを膨らませて釣りに行くようだった。
もちろん琴子はこの湖では全く釣れないらしいという話を言って聞かせたが、親父二人組はさほど気にしていない様子だった。
釣れなくても全く構わないらしい。
琴子はぼんやりと湖を見て過ごしていた。
直樹は、何もない別荘に来ても落ち着くことのない家族に苦い思いをしていた。
昨夜の騒動は想像を絶する行動で、紀子の思い込んだら一直線的な行動を何故誰も止めないのだろうと考えていた。
もっと楽しめればいいのだろうが、さすがにこの年になってはしゃぐでもなく、もともとアウトドアだとかにも興味がない。
紀子の暴走を止めるには頼りない重樹と重雄がボートを出すのを黙って見ていたが、この湖では魚は釣れないという話を聞いてから、湖について気になっていたことを調べる気になった。
別荘を出ようとすると、リビングにはいなかった琴子が察しよく2階から駆け下りてきて、「入江くん、あたしも行く」と拒否する言葉より早く出かける準備をしている。
いつもこれくらい早ければ遅刻しないだろうにと直樹は思ったが、あえていいとも嫌だとも言わずに別荘を出た。
裕樹は既に湖の周りで何かの収集をしてるらしくいなかった。
真面目に夏休みの宿題の植物採集でもしているのかもしれない。
今日も朝はよく晴れていたが、突然夕立が降ることなど珍しいことではない。
遠出はせずに別荘の周りでのんびりするのがやはりいいだろうと直樹は空を見上げて思った。
「入江くん、あのサルね、どうして別荘の周りに現れるんだと思う?」
確かにサルが別荘の周りで過ごしていたらしい形跡は見られるが、正体がわかった今、そんなことを追及してどうなるのだろうと直樹は返事をせずに琴子を見た。
「きっとあのサルはこの別荘に思い出があるのよ」
「…サルがかよ」
「あら、サルだってちゃんと思い出くらい持ってるでしょ」
「ああ、そりゃF組程度には持ってるかもな」
「もう、あたしたちはサルよりましよ!」
サルと比べられても『まし』という言葉しか思いつかないF組とは、それくらいのプライドかと直樹はおかしくなった。
「まあF組の中には本物のサルと見分けのつかないやつも何人かいるかもな」
「金ちゃんだって、サルよりは賢いはずよ!」
誰も金之助のこととは言っていないのだが、ある意味琴子のほうが金之助に対する評価はかなりきついかもしれない。
ぶらぶらと歩いているうちに結局石碑の辺りまでやってきた。
湖の真ん中では重樹と重雄が楽しそうに釣り糸を垂れている。
「おばあさんが建てた石碑って、勝手に建てたのかしらね」
石碑を眺めて琴子が言った。
「あれくらいの小さい石碑なら、ある日いつの間にか置かれていたって案外気づかないんだろ」
「そういうもんかしら。それにしてもこの湖の周りって、地元の人ってほとんどいないわよね」
さりげなく言った言葉だろうが、考えてみれば別荘地だからなのか、この付近を歩いている人間はほとんどいない。
入江家の別荘は湖の真ん前にあるので、自然と湖を含めた景観と楽しみを求めているのかもしれないが、他の別荘地は少し離れた場所にひっそりとある場合が多い。
別荘地の人々がたとえば朝の散歩だとかで会うこともない。
別荘の使用目的が違うのだろうが。
「それにしても安産祈願とは思わなかった」
遊佐の祖母の安産祈願だとすれば、少なくとも大正のあたりか、と直樹は考えた。
その頃に流行ったものといえば、スペイン風邪だの世界恐慌だの小さな村でも怯えるには十分な世相だったろう。
それでもやはり疑問は残る。
本当に安産祈願で石碑など建てるだろうか、と。
もちろん今と比べれば医療技術もまだまだで、出産は命がけだったのかもしれない。
何故湖に沿うようにして石碑を建てたのか。
鬼頭の名のもとに、一体何が伝わっているのか。
そんなことを考えていると、琴子は突然草むらを掻き分けて歩き出した。
どこへ、と問うのも当たり前すぎていた。
「入江くん、早く」
何故誘う、と眉を寄せる。
「勝手に行けよ」
「だって、入江くん、気になってるんでしょ」
こういうところはかなりしつこくて、意外に鋭い、と直樹は黙って肯定した。
「ほら、意外に近いってこの間わかったし」
時刻は既に昼過ぎ。
今から行ってすぐに帰って来れば、日暮れまでには十分間に合う。
でもそれが琴子と一緒で無事に行ってすぐに帰って来れるのか。
それに何故だか、そこへ行くと遊佐に会いそうな気が直樹にはしていた。
会ったところでどうなるというわけでもないし、ここにいても十分会いそうな気もしているというのに、と直樹は思っていた。
「…行かなくてもいい」
「え、いいの?」
草むらを掻き分けていた腕を下ろし、不思議そうな顔をする。
「あそこに書いてあった文は全部覚えてる。今更行ったところで新しく見るものはない」
「さすが入江くん、全部覚えてるんだ〜」
そう言って、再びがさがさと草を鳴らしながら戻ってきた。
その音を聞きながら、直樹は自分の心の奥もがさがさと音を立てているような気がした。
湖は陽光を反射して輝いている。
見た目どおりに穏やかできれいな湖ならば、もっと観光地化してもいいだろうにと直樹は思った。
「人が少ないって、なんだか静かだけどさみしいね」
琴子が言った言葉には賛成したい気分だったが、うなずくのは何だかしゃくだったので、「俺の周りはいつも騒がしいやつがいるから関係ない」とだけ答えた。
それがすぐに自分のことだと察したのか、琴子はむっとしてしばらく口を開かなかった。
その沈黙が今はありがたかった。
『古より地を守りたらんとする者
女子供の脆弱たるを贄とする悪しき者
深き水の大いなる意思を遂げんとせし者
恐ろしき鬼の姿をとりて惑わせし…』犬神神社由来書
(2011/09/08)
To be continued.