悪戯奇譚



17


「おーい…」

湖に浮かぶボートから、重樹が手を振る。
琴子はそれに気付いて手を振り返した。

「何か釣れましたか〜」

大きな声で言い返す。
ボート上の二人は笑って手を横に振った。釣竿を上げて見せ、何も引っかかっていないとジェスチャーをする。
それは平和でのどかなひとときだった。
琴子と直樹の二人が石碑から離れ、そろそろ別荘へ戻ろうかというときになり、草むらから軽快に飛び込んできた動物がいた。

「あ、遊佐さんのサル!」

サルは飛び出してきたまま琴子の頭に乗っかった。
まだサルがそれほど大きくないとはいえ、琴子は突然乗っかってきたサルにふらつき、「おっと、おっとっと…」とバランスを取ろうとふらふらしている。
「何やってるんだ」
そう言って直樹が手を伸ばしたのも束の間、琴子は「あ、れ、と、とっと、と…」と言いながらバックしていき…。
「琴子!」
慌てて伸ばした直樹の手が琴子の腕をつかむ間もなく、琴子は後ろ向きのまま湖へ落ちていった。
キーーーー!と激しい鳴き声を出してサルは飛び退ったが、琴子は直樹に向かって手を伸ばそうとしたまま、驚くほど間抜けな顔で湖に消えていった。
湖に琴子が落ちる激しい水音が辺りに響き渡った。

 * * *

湖に落ちたことはわかったが、意外に水は澄んでいて、目を見開いていた琴子には、湖上に輝く太陽の光が水を通して見えていた。
実際はそんなにのんびりとしていたわけではなかったが、もがいて浮かび上がるには濡れた服が重すぎて、水をかくのも億劫だった。
少し首を動かすと、頭に乗っていたはずのサルはいなかったので、少なくとも落ちたのは琴子一人だとわかった。
スカートが花のように広がっており、すっかり下着が見えてしまっていることへの抵抗はあったが、このままではいけないとようやく腕を動かして浮かび上がる努力をした。
岸へ近づく努力をしているつもりが、実際には岸から離れていることに気付かないまま、琴子はもがき続けた。
湖の中は、意外なほど水草がなく、割と遠くまで見渡せた。
もちろんきれいとは言っても限界があるので、恐らく視界としては1,2メートルが限界だったのだろうが、そのときの琴子にはわからない。
湖の中でも水は割りと温かく、身体が冷える感じがなかった。
何かが水の中で響いた。
よくわからないまま、琴子は浮かび上がる努力を続けた。
光があるので多分上なんだろうというくらいの意識である。
このまま溺れてしまったらどうしよう、と思ったとき、誰かに引っ張られるのを感じたのを最後に、とうとう意識を失ったのだった。

 * * *

…大丈夫。
もしも私が朽ち果てようとも、大地が、森が、水が、覚えているでしょう。
ここは古より私たちが育んできた地。
どうかこの地の守り神となりし者たちよ、
永久とわまでも栄えんことを祈る者よ、
いつか全ての者が忘れようとも。

 * * *

水しぶきが上がり、湖上に直樹と琴子の姿を認めたボートが近寄った。
「ほら、乗せなさい。心配いらないから」
直樹が肩に担ぎ上げた琴子は、気を失っているだけで、湖上に引っ張り上げると同時に息をしだしたのを確認していた。
ただ、ぐったりとした琴子をずっと支えているわけにもいかず、直樹は素直に重樹と重雄が乗っていたゴムボートに琴子を差し出すと、重雄が琴子を抱え上げた。
ボートは多少ぐらりと揺れたが、傾くことはせずにボートに乗せることができた。
「さあ、おまえも」
そう言って重樹は手を差し出したが、「先に琴子を別荘に連れて行ってください」と直樹は一番近くの岸に泳いで戻っていった。
重雄は「直樹くん」と呼び戻したが、重樹がうなずいて制すると、ボートは別荘側の岸に向かっていった。
岸では裕樹が心配そうな顔で立っていたが、重雄が琴子を抱いて別荘に戻るのを黙って見ていた。
「大丈夫だよ、すぐに直樹が助けたからな」
そう言って重樹が裕樹の頭を優しくなでた。

「まあああ!どうしたの、琴子ちゃん!!」

別荘の中から紀子の慌てた声が聞こえ、ばたばたと騒がしい様子が伝わってきた。
裕樹が湖を振り返ったとき、既に直樹は岸に上がり、ずぶぬれになりながら小道を歩いてきたところだった。
「琴子は」
直樹の言葉に裕樹は驚いて答えた。
「今、中に」
返事を聞いたのか聞いていないのか、直樹もそのまま別荘へと入っていった。

「まあ、お兄ちゃんまで!」

紀子の声を聞いて、裕樹と重樹は顔を見合わせて笑った。

 * * *

琴子がひとしきり眠ってから目を覚ましたのは、既に陽も傾きかけてからだった。
琴子はぱちりと目を覚ますと、何故自分がベッドに寝ていたのかよくわからずに起き上がった。
部屋を出ると、隣の部屋から直樹が出てきた。
「あ、入江くん」
直樹は顔をしかめて階段を下りていった。
琴子はその後を子犬のようにスキップをするようについて歩いていく。

「琴子ちゃん、目が覚めたのね」

階段を下りると紀子がキッチンにいた。
「あ、はい、寝てしまったみたいで」
「そう、もう身体はいいの?」
「身体?」
「そうよ。湖に落ちちゃったんでしょ」
琴子は紀子の言葉を聞いて思い返した。
そう言えば、何故寝ていたのか覚えていなかった、と。
「…あたし、どうしたんだっけ」
直樹は嫌そうに答えた。
「バランス崩して湖に落っこちたんだろ。
…覚えてないとか言うなよ」
「えーと…」
琴子は頭を振って考えている。
「覚えてるような、ないような…」
「おまっ…!」
怒りかけた直樹だったが、怒りをすぐに鎮めると「おまえ、泥くせえ」とだけわざとらしく琴子に言ってリビングへ。
「えー、ど、泥くさい?!」
琴子は自分の髪をつまみ、くんくんと匂いをかいでみた。
泥臭いのかどうかよくわからなかったが、確かに髪はごわごわしてもつれていた。
「大丈夫よ、琴子ちゃん。なんだったらシャワーでも浴びてらっしゃい」
「そうします」
そう言って慌ててもう一度支度をするために部屋に戻っていった琴子を直樹が見上げたとき、外から重樹と重雄が戻ってきた。
「琴子ちゃんは目を覚ましたのかね」
「パパ、お帰りなさい。相原さんもお買い物頼んじゃってすみません」
「いいんですよ、奥さん。…琴子のやつはまた騒がしいな」
「ええ。さっき目覚めたみたいで」
紀子は重雄から買い物袋を受け取り、にこやかに言った。
奥では階段から下りてきた琴子が風呂場に直行するのを見て重雄は頭をかいた。
「そそっかしいったらありゃしねぇ。直樹くんも本当にありがとう」
「いえ」
短くそう答えた直樹は、「夕涼みに行って来る」と別荘を出て行った。
「お兄ちゃん、僕も」
裕樹が同じように直樹の後をついて別荘を出て行く。
「今度こそ気をつけてね〜」
紀子の声の響いたリビングで、重樹と重雄は早々と一杯を決め込むことにしたようだった。

その頃風呂場では、琴子が念入りに髪を洗いながし、匂いを確かめていた。
「よし、もう大丈夫よね」
ざあっとシャワーの湯をかぶり、水音だけが響く風呂場で、琴子は唐突に思い出した。
「…そうだ、湖で確か…」
ぴちゃん、と静かな風呂場に落ちた雫は、琴子に記憶を甦らせていた。

(2011/09/10)



To be continued.