18
「入江くん!あのね…」
風呂場から慌てて出てきた琴子は、ぬれた髪を乾かさないまま直樹の姿を捜した。
「あれ」
リビングには直樹の姿はなかった。
「琴子ちゃん?」
紀子がキッチンから顔を出した。
「直樹なら夕涼みに出て行ったわよ」
「そうですか…」
琴子は勢い込んで出てきたものの、外にいることを知ってもちろん後を追いかけようと思ったのだった。
今思い出したことを誰かに言わないとまた忘れてしまいそうだったし、それを話すのは当然直樹にだと思っていたからだ。
「おばさん、あたしも少しだけ行ってきます」
「でも…」
「大丈夫です、もう落ちませんから」
そう言って笑うと、紀子に見送られながら別荘を出て行った。
別荘のドアを開けると、夕陽が眩しいくらいだった。
* * *
直樹は玄関前のデッキからゆっくりと下りると、湖のそばに歩いていった。
小道に入ることはせず、ぼんやりと湖を眺めていた。
「お兄ちゃん、見て見て」
裕樹は小石を拾って湖に向かって投げ、水切りを楽しんでいた。
そこにマウンテンバイクに乗った遊佐が現れた。
「こんにちは」
遊佐はマウンテンバイクから下りて袋をつかんだ。ハンドルにぶら下げられていたものだ。
直樹は自然と目つきが険しくなるのを感じたが、軽く頭を下げた。
「さっき刑部さんに会ったら、琴子ちゃんのこと聞いて…」
「…ああ」
「サルを、見たんですか」
「見た、気がします」
「…そうですか」
「あのサルは、遊佐さんのなんですか」
「元々は、別の人のものでした。この別荘の前の持ち主のお嬢さん」
「…無責任ですね、その人」
「…そう、かもしれないね」
「琴子なら中です」
「ありがとう」
遊佐は気付いた裕樹に軽く手を振って、別荘へと向かった。
そこへ勢いよくドアが開いて、デッキの下にいた遊佐は驚いて立ち止まった。
「遊佐さん!」
琴子は笑顔で遊佐を迎えた。
サルのせいで湖に落ちたと聞いた時は、さすがに遊佐も青ざめた。
湖は見た目よりもずっと深い。
落ちた人の話によると、別荘側よりも特に石碑のある場所側のほうが岸からすぐに深くなっているらしい。
遊佐は思いのほか琴子が元気な顔を見せたのでほっとした。
琴子はデッキを上がってきた遊佐がまさか自分のために来たとは思わずに玄関の場所を譲った。
「家の方は見えるかな。少しだけ、いいかな」
「うん、あ、はい」
遊佐は「こんにちは」と言いながら別荘の中へ入っていった。
「琴子ちゃんが湖に落ちたとうかがって…」
「ああ、サルに乗っかられたと言うんだが」
重雄は頭をかく。
「俺たちは見てないからなぁ」
「そうねぇ、私も一度も見ていなくて」
紀子も首を傾げる。
「裕樹はサルだったような気がする、だけでそのものは見ていないみたいだし、お兄ちゃんはサルかもしれないというだけではっきりしないし、琴子ちゃんだけなのよ、サルをしっかりと見たのは」
遊佐は息を吐くと、意を決したように言った。
「そのサルは、多分前の別荘の持ち主の飼っていたものだと思うんです」
「あら、あの不動産会社の…」
「昨年の夏、逃げ出したサルを捕まえきれないままここを去っています。もし見つけたら僕が飼育することになっているんですが」
「そうなの」
「そのサルは危険はないのかな」
重樹が心配そうに尋ねる。
「さあ、僕にも詳しいことは…。でもサルですから、手を出さないほうがいいと思います。
できるだけ捜して保護しようとこの一年がんばったんですが、僕の前にはなかなか現れてはくれなくて。なぜかばあさまの前には現れていたらしいんですが、冬を過ぎた辺りからはさっぱり…。
餌はともかく、熱帯のサルなので死んでしまったかと思っていたんです。この辺は雪深いですから」
「まあ、そうだったの」
「賢いサルだったので、多分生きていればこの辺りをうろついているはずだと思っているんです。…ご迷惑な話でしょうが。
とにかく、サルが原因と聞いてはお詫びに伺わなければと。
本来なら父も一緒に来るはずだったのですが、ばあさまを一人にしておけない事情がありまして、まずは僕だけ取り急ぎ来させていただきました。
それから、これはこの地元の特産品です。急いでいたのでろくなものがなくて申し訳ないです」
「ご丁寧に」
紀子は遊佐から袋を受け取り、「おいしそうなプラムね」と微笑んだ。
「それでは、今日はこれで失礼します」
「気をつけてお帰りなさいね」
紀子は玄関先まで遊佐を見送った。
遊佐が外へ出たとき、夕陽は先ほどよりも少し沈んだようだった。
琴子は自分の名前が出たので立ち去るタイミングを逃し、玄関の外で遊佐の話を聞いていた。
前の別荘の持ち主がサルの元飼い主だと知って、琴子はなるほどね〜とうなずいていた。
別荘の周りをうろうろするにはやっぱりわけがあったのだと琴子は胸をそらした。
早速直樹に話そうと琴子は駆け寄った。
「入江くん、聞いて。あのね、あのサルって、前の別荘の持ち主の人のなんだって」
「知ってる」
「えー、何で知ってるの」
「無責任なお嬢さんが見捨てたんだろ」
「…どういうこと?」
「サルは普通に飼うには世話が大変なんだ。小さい頃はただ可愛いだけで済むかもしれないが、サル専用の檻はいるし、餌も大変だ。
前の別荘の不動産業者なら、確か倒産する羽目になったはずだから、サルどころじゃなかったんだろ」
「そんな…」
琴子はしょんぼりとして湖を見た。
「あ、でもそのお嬢さん、きっと遊佐さんと恋仲だったのよ!だから遊佐さんがサルを譲り受けて、ネックレスも…」
「はぁ?」
「えーと、そう、ネックレスがね、石碑のところに落ちてたの。本当はお嬢さんにあげるつもりだったのよ。でも昨年の夏、お嬢さんは…」
「サルを見捨てるくらいだからたいしたやつでもないんだろ」
「そんなのわかんないじゃない。もしかしたらし、死んじゃったのかもしれないし」
「妄想もたいがいにしろよ」
「えー、でも」
「亡くなってはいないよ」
遊佐の声がした。
裕樹も直樹と琴子のそばに戻ってきた。
「ごめんね、誤解させちゃって。聞いたとおり、別荘はこうして入江さんに売られて、お嬢さんも多分ここへはもう来られないとわかっていたんだと思う。
僕が一方的に慕っていただけで、お嬢さんのほうはきっと何とも思ってないと思うよ」
「でも」
「うん、現実にはなかなか言うことを聞かないサルだけが残ったんだから、上手く利用されたのかも。…そう思いたくはないけど」
直樹が嫌そうに顔をしかめた。
「じゃあ、あたしが湖で聞いた声はなんだったのかな」
ぽつりと琴子は言った。
「…声?」
遊佐は不思議そうに尋ねた。
直樹は「妄想だろ」と答えた。
「この地を見守っているからって。…ちょっと違うかもしれないけど」
「湖で?」
遊佐は湖を見て言った。
「うん、多分。湖に落ちたときだと思うんだけど」
「夢じゃないのか」
直樹はため息をついた。
「いっつも一人で妄想してるし、ひとり言も多いし」
裕樹がぼそりと言った。
「だって、そう思ったんだもの」
「それはともくかく…あの湖に水草が少ないわけはわかった。
多分温泉か何かが湧いてるんだろ。湧出量が少なければ知ってる人も少ないかもしれない。
だから湖の水は思ったより温かかった」
直樹は琴子を見た。琴子を助けに湖に入ったときに直樹が感じたことだった。
「そういえば」
琴子は水が温いと感じていた。夏のせいかと気にならなかったが。
「中央付近で魚が釣れないのはそのせいかもしれない。事実、湖の岸近くは魚がいるのを確認してるんだから、いないわけではないし」
「あたし魚がはねるの見た」
「ああ、なるほど」
遊佐はうなずいた。
「かつてはあの神社にも巫女がいたと聞いています。僕が生まれるずっと前のことなので、ばあさまに聞いた話ですが」
そう言って遊佐は話し始めた。
「この湖も昔からあったわけじゃないらしくて、突然ここにできたと聞いています。いつの時代か覚えていないけれども。
それが温泉とか湧き水のせいならばわかります。
郷土史なんかは大げさにかかれることも多くて、一晩で突然に、となっていますが、それがたとえば地震だとかのせいならありうることかもしれませんし。
昔のことなので、きっとひどく恐ろしい思いをしたことでしょう。温泉が湖の中で湧いているなんて調べなければわからないことでしょうし。
僕なんかは小さな頃からこの湖に近づいてはいけないとくり返し教えられてきましたけれども、それは多分子どもが溺れてしまったりもしたのでしょう。
それでも村のものたちが何かを鎮めようと神社を奉ったりするのもわかる気がします」
「でも、それと琴子の妄想に何の関係が?」
直樹は冷たく言った。
「それは、実際のところわからないけれど、ここに湖の守り神がいるとしたら、それはそれでいいと僕なんかは思うけど」
遊佐は既に暗くなりつつある湖に目を向けた後、「いけない、もう帰らないと」と慌てた。
挨拶もそこそこにマウンテンバイクにまたがり、「それじゃあ、また。湖の話、また詳しく聞いてみます」と言って帰っていった。
三人は薄暗くなった湖を眺めてから、ゆっくりと別荘に戻っていった。
別荘に入る間際、直樹はふと湖を振り返った。
遊佐の言う守り神だとか琴子の妄想は信じていなかったが、いるはずなのに姿を見ていないサルのことや湖に入ったときの妙な気分だけは気になっていた。
その疑問を解消しないまま放っておいても一向に構わないのに、もう少しだけ調べてみる気になっていた。
琴子は足を止めて湖を振り返った直樹をそっと見ていた。
自分の話を妄想だと言われるのはいつものことだったが、直樹もまだ何か気になっていることがあるのかと。
見ているうちに直樹が琴子に気付き、フンとばかりに勢いよく玄関のドアが閉じられた。
(2011/09/14)
To be continued.