悪戯奇譚



19


翌朝、直樹は朝早く一人で湖の周りを歩くつもりだった。
神社の管理もしているという刑部の話も聞きたいと思っていた。
あれこれ詮索されるのもうっとおしかったので、誰にも何も言わずに別荘を出た。
湖の周りはまだ朝靄がかかり、ようやく朝日が昇り始めたばかりだった。
山深いだけに山のふちから朝日が見えるようになるのはかなり遅いようだった。
湖を歩き出して数分後、直樹は立ち止まって素早く後ろを振り返った。

「琴子、おまえそれで隠れたつもりかよ」

直樹の少し後ろ、カーブで見えなくなりそうな場所で琴子が草に隠れようとしていた。
それでいて直樹に鋭く声をかけられた途端に飛び上がるようにして驚いている。

「あれ、あはは…ば、ばれちゃった」

ごそごそと草から這い出して、一応遠慮がちに直樹のそばに来た。
まだ髪にも草がついている。
直樹は前髪についた草をさっとさりげなく取った。あまりにもさりげなかったので、琴子には何か直樹の手が動いたくらいにしか見えなかった。
「なに?」
「別に」
「えーと、い、一緒に行ってもいい?」
「来るなって行ってもどうせこっそりついてくるんだろ」
「う、うん」
「なら、目に付くところにいたほうがいい」
「ありがとう!」
「…湖に落ちないように向こうを歩け」
そう言って小道の外側を指した。
「うん」
琴子に構わず直樹はどんどん歩いていく。
時折小走りになりながら琴子はついて行った。
「湖の向こうが見えないくらいだね」
朝靄は辺り一体を覆い、視界は悪かった。
「あたしが湖で聞いたこと、やっぱり妄想だと思ってる?」
「…さあ、少なくとも俺には聞こえなかった」
「サルだって、誰もちゃんと見てないって。入江くんは見たよね」
「…まあ、サルはいるんだろ、多分」
「うん、いるよね」
あとは黙って歩き続けた。

石碑のところまで来ると、ようやく湖が見えるくらいに晴れてきた。
「なんだか、変なの」
あえて何が、と直樹は聞かなかった。
「守り神がいるのに、なんで怖そうな名前なんだろう」
「その守り神となった理由が原因なんだろ」
「そうか…。うん、きっとそうだね。さすが入江くん」
石碑には目もくれずに草むらを掻き分けて歩き出した直樹の後を琴子は慌てて追った。
「待って、神社に行くの?」
「神社というよりは刑部さんに会いに」
「刑部さん?…あっとっ」
砂利の道に出た途端につまずく琴子に舌打ちをして、直樹は言った。
「黙って歩け」
「はい…」
しばらくするとそれでも我慢できなくなったように琴子は聞いた。
「刑部さんが何でいるの?」
「日本語も理解できないか」
「だって気になるじゃない」
神社への道を歩きながら、琴子は少しだけ息を切らせながら話す。
「刑部さんがこんな朝早く神社にいるの?」
「…刑部さんは毎朝仕事の前に神社に行くんだよ。昨日電話して確認した。
ついでにあの男も来る」
「あの男?」
琴子は少し考えて、ようやく遊佐のことかと気がついた。
考えている間に神社が見えてきた。
神社には刑部の車が確かにあった。
神社の入り口には、にこにこと笑った遊佐とこれまた同じように笑っているよく似た顔立ちの年配の女性がいた。
「おはよう」
「おはようございます」
琴子は珍しいものを見たように遊佐と遊佐の多分祖母であろう女性を見た。
「昨夜は電話をありがとう。まさか君から電話をもらうとは思わなかった。しかもばあさまを連れてなんて」
直樹は女性の前に立ち、「わざわざお越しいただいて、ありがとうございます」と丁寧に挨拶をした。
琴子はその挨拶が終わったのを見計らって割り込んだ。
「遊佐さんのおばあさん?」
遊佐は笑って言った。
「そうだよ。この間迷惑をかけたばあさま」
「あれ、でも、あたしが見たのは…」
「何の話?」
琴子は首を傾げて遊佐の祖母をまじまじと見た。
「行くぞ」
「ちょ、ちょっと、入江くん、引っ張ら…あわわ」
その琴子の襟首をつかんで神社の社殿へと直樹は引っ張っていった。
社殿では扉を開けて刑部が社殿の中を掃除していた。
「ああ、おはようございます」
刑部の声に口々に挨拶を済ませると、全員社殿のござの上に座り込んだ。
琴子は先ほど引っ張られた襟首を直して「伸びちゃうじゃない…」と愚痴をこぼした。
「祭りのときでもなければ何もないので」と刑部が断りを入れるほど、社殿の中は本当にこれと言って何もなかった。
一番奥の扉の向こうに御神体があるだけのようだった。
「直樹くんが言っていたことだけどね、宮司の家系が絶えて久しいし、私は世話役なだけで詳しいことはわからないから、この遊佐君のおばあさまに来ていただいたんだよ」
「ばあさまはちょっと呆けてきて、一人でうろうろすると家に帰って来れないこともあるくらいなんだけれど、昔のことはよく覚えているから。
ばあさま、湖と神社のこと、話してくれる?」
「ああ、鬼頭様ね」
遊佐の祖母はにこにこしたまま話し出したが、それは想像していたよりも悲惨な話だった。

「わたしのばあさまが小さな頃は、湖はまだもう少し小さかったけども、そのばあさまも突然湖ができたのはいつか、正確には知らなかったと。
村は誰も彼も貧乏で、あるとき全く雨が降らずに作物が皆枯れてしまうってんで、この湖から水を引くことになった。
ところが、この土地が村の長のものだから、水をもらうには苦労したそうな。
作物が枯れてしまえば村の長だって困るわけだから、ちょっとくらい分けてくれても罰は当たらんだろとほとんどは黙って水を都合していたんだと。
ところが水が突然温くなってきて、冷やして撒いてもせっかく撒いた水で作物が枯れてしまっては、そりゃ罰が当たったと思うのは仕方がない。
そこで村では罰当たりを詫びて鎮めるために、奉り事を行うことにした。
巫女を立て、まずは雨乞いを、次いで元の水に戻してくれるようにと願い、村の者たちは熱心に祈ったが、水は元に戻らず、怒った村の長が村の者の首をはねたらしい。
それが何人だとか、どこでとかは聞いておらんけども、多分湖の淵じゃなかろうか。
首をはねられた村の者たちの顔は鬼のような形相をしており、鬼頭と恐れられたそうだ。
村の長の命令でその遺骸も粗略に扱っておったけども、疫病が流行り、ある日湖が真っ赤に染まったことがあり、これは首をはねられた者の呪いだと言うんで、村の長の一人娘が人柱になってこれを鎮めたと。
湖は元のように戻り、ほこらが建てられたということだね」

ただ黙って聞いていただけだった一同が、ようやくつめていた息を吐き、聞いた話を頭の中で反芻してみる。
「水が温くなったのは温泉のせいだとして、作物が枯れたのもやっぱり温泉成分のせいだろうね。硫黄だとかナトリウムだとかが混じっていれば作物には悪影響だろうし、今よりもずっと湖が小さければ、成分ももっと温泉そのものだったろうし」
遊佐は納得がいったという感じでうなずいた。
「湖が赤くなったのは?」
琴子は身震いしながら聞いた。
「プランクトンか何かのせいだろ。水が汚れれば疫病も流行りやすくなるし、赤潮が発生してもおかしくはない。温泉成分のせいで赤っぽくなることもあるだろうし」
直樹がさらっと答えた。
「ああ、血の池地獄とかもあるしね」
腕を組んで刑部は答えた。
「人柱を立ててって、やっぱり人を埋めちゃうってこと?」
遊佐は困ったように目を直樹に向けた。
目を向けられた直樹は「やっぱりも何も人を埋める以外の人柱があるなら教えてほしいね」と悪態をついた。
湖の淵で何人も首を切られたという話よりもたった一人の人柱に反応するのは、その人柱が同じ女だからだろうかと直樹は考えた。
それとも勝手に水を取っていた村人は仕方がなくて、鎮めるためだけに埋められた娘がかわいそうだからか、と思うと、琴子の都合のよいおつむ加減に腹が立ってきて、「おまえが落ちたところに埋まってるのかもな」とわざと言い添えた。
「う…もしかしたら本当にそうなのかも。だって人柱って、い、生きたままってことだよね」
「そりゃ苦しくて呪いたくもなるだろうな」
青ざめる琴子と澄ました顔の直樹を見比べて、遊佐は苦笑した。
「石碑はどうしてあそこに建ててあるのかな。今まであまり気にしたことなかったけれど」
話題を変えようと遊佐は祖母に聞いた。
「…お松ばあさんに聞くといい」
祖母はそう言ったが、刑部と遊佐が顔を見合わせて「うーん」と唸った。
「あ、あたし聞いたよ。安産祈願だって」
「…誰に?」
遊佐に聞かれて琴子は一瞬詰まった。
「…そう言えば、あたし、その話をしてくれたのが遊佐さんのおばあさんだと思ってたの」
「どこで聞いたの?」
「昨日の朝、湖のところを歩いていて…。あ、そうそう、そのときあのサルが出てきて、おばあさんと一緒に帰っていったの」
「どんな人だった?」
「遊佐さんのおばあさんよりずっと年を取っているように見えたんだけど。
ほら、入江くん、たたりだーって脅したあのおばあさん」
直樹は嫌そうに言った。
「それがどうした」
「あのおばあさんに遊佐さんのおばあさんかって聞いたら、否定しなかったからてっきりそうだと思ってた」
刑部は腕を組んだまま遊佐を見た。
「ばあさまは見たとおり、少し腰が曲がりかけててこんななりだし、昨日の朝はさすがに外に出ていないはずだからなぁ」
「じゃあ、あれ、誰?」
「ははは、まさか湖に沈められた娘さんなわけないし」
「だって、おばあさんでしたもん」
遊佐の言葉に反論する。
「それなら、この近所の人かなぁ」
「一郎って、呼んでましたよ、遊佐さんのこと」
話し終わった後、下を向いて眠っているのかと思った遊佐の祖母だったが、ふと目を開けて言った。
「お松ばあさんしかおらん」
「お松ばあさんって?」
琴子の問いかけに刑部が答えた。
「昔この神社の巫女もしていた人でね、多分そういう話には人一倍詳しいと思うんだ。
でも、お松ばあさんはもう亡くなられたから」
「そうだよ、ばあさま。一緒に葬式行ったもの」
ますますわけがわからず、琴子はさすがにうーんと顔をしかめた。

(2011/09/15)



To be continued.