20
社殿の中で神社の世話役をしている刑部、遊佐と遊佐の祖母、直樹と琴子の五人が座っていたが、ござが敷いてある以外何もなく、普段は宮司もいないため刑部が手入れをしないと神社は荒れ果ててしまうらしい。
社殿の外は少しずつ日が昇っていくにつれ気温も上がってきたようだった。
蝉も鳴きだし、じっと黙っているとうるさいくらいに聞こえる。
「写真でもあればいいんだけど」
琴子はため息をついた。
「こうしていても仕方がない」
直樹が言って立ち上がった。
「ばあさま、お松ばあさんのことはまたね。スケキヨもまだ生きてるみたいだし、そのうちまた現れるかもしれない」
遊佐が言った。
「…スケキヨというのは」
直樹が顔をしかめて聞いた。
「ああ、サルの名前なんです。ほら、ここに犬神神社ってあるものだから、あの別荘に来ていたお嬢さんが面白がってサルを買ったときに名付けたんですよ」
「サルは他の人に懐いているんですか」
「割と人懐っこいほうだと思いますよ。昨年まではそれこそ大事に育てられていましたし。それでも全く知らない人についていくとは思えないんだけれど」
遊佐は祖母が立ち上がるのを手伝った。
「また何かわかったら、刑部さんを通じて連絡しますよ」
「私もそれらしい人がいたらご連絡しましょうか」
「お願いします」
琴子がそう言ったのを機に全員が暗い社殿から出ると、眩しそうに目を細めた。
* * *
神社からの帰り道だった。
砂利道を黙って下り、湖への小道に入り、歩いた跡のある草むらに入った。
直樹を前にして琴子はその後ろを黙って歩いていたが、行きと同じ距離であるはずの道がやけに長い気がした。
「ねえ、なかなかたどり着かないね」
何気なく琴子はそう言ったが、前を歩く直樹は額に汗を流して立ち止まった。
琴子はまさか直樹が道を見失うことなどありえないと思っていたので、直樹が「間違えたはずはないのに、湖に着かない」と言ったときは心底驚いたのだった。
「間違えてないなら、何で?突然湖が遠くなったとか?」
そんなわけはないだろうと思いつつ、辺りを見回した。
草むらはただ周りを覆い、先が見えない。
踏み固められた跡はあるのに、その先はまた草むらだった。
直樹の背丈なら湖も遠くに見えるくらいの距離だったはずなのに、いつの間にか迷い込んでいるといった感じだった。
「…そうだな、おまえの言うとおり、湖が遠くなってる」
立ち止まって大きなため息をついてまいったというように直樹が首を振った。
「湖が移動してる…わけないよね」
「同じところを歩かされてるみたいだ」
「まるで狐に化かされた昔話みたいじゃない」
「狐じゃなくて猿だったりしてな」
「え、サル?」
「…どうする、このまま歩き続けるか、戻るか」
「戻り道を行ったら、神社に戻れる?」
「…わからない。俺は湖への道も間違って歩いたつもりはないけど」
「ちょっと待ってみる?」
草むらがざわざわと耳障りに揺れているのが気になり、二人は辺りを見渡した。
「…誰かいるの?」
何となく直樹に寄り添った。
「なんか、やだ」
遠くから、何かを探しているようなざわめき。
まだ朝も早いはずなのに、いつの間にか薄暗く見える。
「い、入江くん、やっぱり、行こう」
直樹の服を少しだけ引っ張った。
「いたぞ!」
朝なのに、何故だか遠くから駆けつけてくるざわめきの主が松明を持っているように見えた。
何かがおかしかった。
直樹も理性ではこんなことがあるわけがないと思っていたが、何かが追いかけてくるような恐怖心を感じた。
何よりもこの草むらで、朝の時間に松明を灯して、何かを追いかける者がいるとは思えなかったが、咄嗟に琴子の手を取り、駆け出した。
二人が駆け出したのに気付いたのか、追いかけてくる何者かは「逃げたぞ!」と明らかに二人を追いかけてくるようだった。
一体何が起こっているのか、信じがたかったが、捕まれば何かひどいことがおきそうな気がして二人は走って逃げた。
草むらを掻き分けながら、あくまで湖に出るつもりで走り続けた。
「あっちだ!」
いつの間にか一本だった松明は二つに増え、松明以外にも提灯らしきものも見えた。
明らかにおかしい。
草むらを掻き分けて進むうちに、どこか違う場所と時代に入り込んだようだった。
足下の石音で二人がいつのまにか湖の岸辺にいることがわかった。
あれほどたどり着かなかった湖だったが、湖の向こうに見えるはずの別荘はなかった。
ここはどこだ、と直樹が思ったとき、「入江くん!」と切羽詰った声がした。
琴子の声に振り向いた直樹の目には、尋常ならざる表情をした人々の姿だった。
何故こんなに薄暗いのか、考える余裕がなかった。
琴子を後ろにかばい、松明や提灯を持った人々に向き合った。
「村の大事をわかっていて逃げたな」
何を言われているのか直樹と琴子の二人にはわからなかった。
これではまるで先ほど聞いた村の話とそっくりではないか、と。
「入江くん、あたしたち、殺されちゃうの…?」
震えながら、琴子が背中で言った。
「…こんなのどう考えてもおかしいだろ」
「わかってる。おかしいよ。でも、この人たち、本気だもん」
「湖に飛び込むか」
「それで助かる?」
「何もしないよりましだろ。たとえ夢だったとしても、こんなところでおまえと殺されたら気分が悪い」
「入江くんがそう言うなら、あたしどこへでもついてくよ」
湖に向かって一歩ずつ後ずさる。
松明を持った人々の後ろから大きな鎌を持った男が一歩出た。
「行けっ」
直樹の言葉に押されるようにして、琴子は思いっきり飛び込んだ。
続けて直樹が飛び込んだ。
「飛び込んだぞ!」
そんな声が聞こえたような気がしたところで、二人の耳には何も聞こえなくなった。
* * *
湖に飛び込んだと思った二人が気がついたとき、そこは湖の周り小道の石碑の前だった。
土ぼこりにまみれ、二人は起き上がった。
「…何で?」
「戻っただけだろ」
そう言って直樹は土ぼこりを払った。
「…怖かった…」
まだ少し震える膝を懸命に立たせ、琴子は湖を見た。
辺りは薄暗くもなければ湖の向こうに別荘も見える。
「何か、夢だったのかな」
「猿に化かされたんだろ」
「そんな」
そうは言ったものの、琴子は先ほどまでつかまれていた手を見つめた。
「入江くん、ありがとう」
一緒に逃げて、そして背中にかばってくれたことを思い出して、琴子は微笑んだ。
ふと石碑を見た。
「あーーーーー!」
「なんだよ、うるせえな」
琴子は石碑を指差した。
「た、倒れてる!ほ、ほら、だからやっぱり呪われたんだよ」
直樹は無言で倒れていた石碑を直した。
そのまま小道を別荘に向かって歩き出した。
「あのままいたら、どうなっていたのかな」
「知るかよ」
「ねえ、あれって夢?それともタイムスリップしたとか?あ、それともやっぱり何かの呪いだったとか?」
直樹は黙って歩き続ける。
「入江くんと一緒でよかった。でもあの石碑が倒れたのって、元はと言えば入江くんが動かしたせいよね」
一瞬直樹は琴子を睨んだ。
睨まれて怯んだ琴子の歩みが遅れ、小走りで直樹を追いかける。
「もしかしたら昔、ああやって誰か殺されちゃったのかな」
琴子は応えのない直樹に構わずしゃべり続けた。
「村の長の娘だって、喜んで人柱になったわけじゃないよね」
琴子は何となく追いかけられて湖に飛び込んだ者たちがいるのだろうと悟った。
「もしかしたら恋人と逃げようとしていたりして?」
琴子はちらりと直樹を見た。
とても先ほど一緒に逃げ回っていたとは思えない横顔だった。
もっと悲惨な歴史があったとしても、語り継がない限りきっと子孫にはわからない。
もしかしたら巫女は村の長の娘かもしれないし、村の長の娘は恋人と手を取り合って逃げたかもしれない。
追い詰められて湖に逃げ込んだとしても、きっと誰も助けたりしないだろう。元々人柱となるべき娘だったのだから。
人柱となった娘は、村人たちを恨んだろうか。
人柱になることを拒んだのに、結果的には人柱と同じく湖に沈むことになったとしたら、恨みだけが残るだろうかと琴子は考えた。
琴子は自分が湖に落ちたときのことを思い出した。
もしも飛び込んだのが恋人と一緒であれば、それは納得して飛び込んだに違いない。
そして、多分、結局は村の者たちのために祈るかもしれない、と。
琴子は、案外あの白昼夢のような出来事が真実なのかもしれないと思い始めていた。
「もしも入江くんとあのまま殺されちゃったとしても、あたしは恨んだりしないよ。一緒に逃げてくれた事実だけで十分だもん」
直樹は後ろに歩く琴子を確かめるように振り向いて「バーカ」とだけ言うと、再び早足で歩き出した。
「もう、入江くん、待ってよー」
別荘は目の前だった。
(2011/09/15)
To be continued.