悪戯奇譚




「おはようございます」

あまり眠れなかったと琴子は目をこすりながら起きてきた。
入江家とは違う家の構造に少々戸惑いながら目覚め、これまた手早く着替えだけ済ませると、直樹の起きてこないうちにと洗面所に直行した。

「おはよう。あら、琴子ちゃん、今は…」

洗面所を開けて寝ぼけ眼で鏡を見ようとしたが、その鏡の前に大きな背中があった。

「…あれ、見えない」

まだ寝ぼけたままその背中越しにひょいと鏡をのぞくと、そこで初めて鏡に一緒に映る姿を認めた。

「い、い、い、入江くん」

腰が抜けそうなほど驚いて、思わず狭い洗面所でよろめいた。
一方直樹はずうずうしくも後ろから割り込んで入ってきた琴子に顔をしかめつつ、そのまま気づいて出て行くかと思いきや、そのまま押しのけて鏡を見ようとする琴子をにらみつけた。

「きゃあ」
「きゃあじゃねぇよ」

不機嫌そうに構わず顔を洗う。
直樹とて全くひげが生えないわけではなく、剃り終わったところを踏み込まれていい迷惑だと思っていた。

「ご、ごめんなさい、ね、寝ぼけちゃって」
「いつものことだろ」

直樹の言葉を最後まで聞かずに琴子は洗面所を出て行った。
すでに一年以上同居しているが、朝は特に別の洗面所を使っていたせいか、あまりかち合うことはなかった。
紀子は琴子のためにトイレと洗面所を別にしたほうが、とゲスト用を使うように勧めていた。
もちろんいつもその限りではないし、琴子が通常の洗面所を使う分には全くとがめることはないが、直樹や裕樹が琴子が同居になってからゲスト用を使うのを禁止していた。
裕樹は不満そうだったが、女には女なりの事情があるのを知るのはもっと先のことだろう。

「お兄ちゃん、おはよう。さっき琴子が赤い顔して部屋に戻っていったけど、あいつ朝からおかしいよね」
そう言いながら裕樹が入ってきたが、直樹は裕樹のために少しだけ場所を譲ってやった。

「お兄ちゃん、なんか琴子がおかしいことしたの?」
寝ぼけた顔はよく見るが、さすがに寝起きそのままの琴子を見るのは久しぶりだと直樹は思い返していた。
どうやったら髪があれほどもつれるのだろう、とか、仮にも好きだと公言している男の前で大あくびができるのは女としてどうだろう、とかを思い出すと、知らずうちに笑っていたのだった。
「いや、別に」
「そう?僕、朝ごはん食べたら記念碑見に行くよ。それから、ビデオ持って行くんだ」
今日の予定を語って、裕樹は洗面所で顔を洗う。
直樹は微笑ましくそれを聞いて、タオルを渡した。
「お兄ちゃんはどうするの?」
「そうだな、後で考えるよ」
そう言って答えるのを避けた。
持ってきた本をのんびりと読むのもいいし、町へ行ってみるのも悪くないと思ったが、それを口に出して言うと必ず付いてくるやつがいるので、あえて口にはしなかった。
案の定、洗面所を出ると琴子が立っていて、慌てて首を振った。

「べ、別に聞き耳立てていたわけじゃないからっ」

本当に偶然だったのか、それはどちらでも良かったが、琴子の慌て具合がいかにも胡散臭くて、直樹は無視して通り過ぎた。
間もなく朝食もできるだろう。
直樹と裕樹が洗面所を出たのと入れ違いに琴子が入っていった。
あのもつれた髪をどうやって直すのか、それには少なからず興味があったが、まさか洗面所に入り込むような馬鹿げた真似はできず、裕樹と一緒に食卓へと歩いていくのだった。

 * * *

朝食を終え、裕樹は早速別荘の外へ駆けていった。
直樹は本を片手に外の景色を眺めながら椅子に座った。
その眺めていた外を裕樹とは逆の方向に歩いていく琴子を見た。
麦わら帽子をかぶり、ベージュのワンピースを翻し、いかにも別荘に来ましたという格好は、恐らく紀子の趣味なのだろうと思われた。
直樹はちょっとだけ思案顔でそれを見送ると、開いた本を閉じて立ち上がった。

「あら、お兄ちゃんも出かけるの?」
「別に」

そうは言ったものの、手に持った本は閉じられ、紀子が洗濯をしに裏へ行った隙に直樹の姿は見えなくなっていたのだった。

 * * *

ビデオカメラをぶら下げ、湖沿いを歩いてきた裕樹だったが、これだと思われる石碑が見えて走り出した途端に先に現れた人影につい叫んだ。

「こ、琴子ー!」

その声にこちらを見たのは、紛れもなく別荘に残っていたはずの琴子だったが、裕樹よりも先に石碑前にたどり着いていたのが気に入らず、裕樹はそのまま口を尖らせて文句を言い続けた。

「どうしておまえが僕より先にここにいるんだよ」
「どうしてって、だって昨日歩いたときに向こうから回るよりも近かったもの」
「だ、だからってどうしておまえがここにいるんだ」
「どうしてって、気になるから見に来たのよ」

自分より先に着いた理由が、自分が歩いてきた距離よりも反対側から歩いてきたほうがより近いとは思わず、裕樹はそれ以上何も言わずに琴子を無視して石碑の分析に取り掛かることにした。

「お兄ちゃんの言うとおり、何かの記念碑みたいだから呪いなんて関係なさそうだ」
「でも、記念碑って、こんな場所に、どんな記念が?」
「昔この村が作られた記念とか…って、僕の邪魔するなよ」
「村って言ってもこの辺、湖だけで何もなさそうだけど」
「昔はあったんだろ。だからこんなに古いんだろうし。字がかすれてて読めないけど、江戸時代の年号みたいだし」
「えー、ホントに?」
「ここに安…て見えるから、安政年間だとか」
「へー」
「それに、安政って確か天変地異もあったりして、飢饉とかあったりしたんじゃないかな」
「…ききんって?」
「…おまえ、本当に勉強してないんだなっ」
「い、入江くんには内緒にして」
「バカ琴子、よく聞けよ。飢饉っていうのは、飢え苦しむことだよ」

琴子はそれを聞いてしばらく黙ると、恐る恐る言った。
「ねえ、でもそれっておかしくない?だって、飢え苦しむような時に記念碑立てたりする?どちらかと言うと、たくさん亡くなったから忘れないようにとか、もしかして人柱とか」

琴子の発想は最後にはあらぬ方向へ飛んでいきそうだったが、あながち間違った考えではないと裕樹も気づいた。
安政年間は確かに天変地異も多く、既にペルーの黒船が来航して幕府内も大騒動の時期である。
明治に入って藩の廃止とともに統制が始まっているが、江戸の混乱期に村の統廃合はおかしいのかもしれない、と。
「じゃあ、この石碑って…」
思わず裕樹が後ずさる。
それを見た琴子も後ずさる。
そのとき、またもや横の草むらでがさっと音がした。
二人でびくついて横を見るが、草むらは音を立てるばかりで何かが出てくるわけではない。
「の、呪いってどこから出てくるの?」
琴子が小さな声で言う。
それを聞いて裕樹は考える。
もしかして本当にこの石碑に呪いがあるならば、呪いはどこから来るのだろう。
飛んでやってくるのはなんとなく違う気がするし、もしややはりこの石碑の動かしたところから染み出てくるとか?
そんな非科学的なことは信じていない。
信じていなかったが、およそ呪いとかいう抽象的なものに対してどうやって防げばいいのかは知らない、と裕樹は石碑を見つめた。
その石碑が動かされたのかどうかは見た目ではわからないが、古い石碑だというのにそんなに簡単に動いたのだろうか、と疑問に思った裕樹は、その石碑に手を伸ばした。
「ダ、ダメよ、裕樹くん。裕樹くんまで呪われちゃうわ」
「でもお兄ちゃんは触ったんだろ」
「触って動かしちゃったのよー」
頬に手を当てて、青ざめた顔で琴子が言った。
「バ、バカバカしい」
と言いつつ、裕樹も触るのをやめた。
呪いなんてあるわけないが、それでもやはりそこは小学生の裕樹、触らぬなんたらで石碑を前にして躊躇した。
その二人の前にがさりと音がして、何か動物のようなものが現れた。

「で、出たーーーーー!」
「な、なに、いやーーーーーー!」

辺りに二人の悲鳴が響き渡った。

(2011/07/30)


To be continued.