悪戯奇譚




二人が上げた悲鳴に驚いたのか、草むらか出てきた動物は一瞬立ち止まった後、再び駆け抜けるようにして草むらへ戻っていった。
それを呆然と見送り、はっとしたように琴子が「裕樹くん、ビデオ!」と叫んだが、時既に遅し。
裕樹がビデオを操作している間に草むらの奥へと去っていく動物はあっという間に見えなくなっていた。

「い、今の、何?」
「ほら、いたじゃないか」
「サルよね、サル。ただのサル」
「だからシッポが…」
「普通のサルだったわよ」
「トラ模様で」
「トラ柄の服着てたじゃない」

二人でやりあっている内に「おい」と声をかけられた。

「きゃあー」
「うわっ」

突然声をかけられ、お互いに辺りを見回した。
二人の後ろには、腕を組んで呆れている直樹が立っていたのだった。
「な、なんだ、お兄ちゃんか」
「もう、入江くん、びっくりさせないでよ」
直樹は心外そうに二人を見やる。
「お兄ちゃん、さっきの動物見た?」
「ただのサルだったわよね」
二人に詰め寄られ、直樹は大きなため息をついた。
「動物は見ていない。見ていないからサルかどうかもわからない」
そう答えると、二人はがっかりした様子で言った。
「お兄ちゃん、見てないんだ」
「もっと早く来ればよかったのに」
「おい、琴子。これであの部屋は僕が入るんだからな」
「まだあの変な動物だって決まったわけじゃないからダメよ。だいたい裕樹くんてば、ビデオ撮り忘れたじゃない」
「お、おまえが…」
二人のやり取りを黙ってみていた直樹だったが、ふと二人がこちらを向いて言った。
「ところで入江くんも石碑が気になったの?」
「お兄ちゃんも見に来たの?」
確かに気にはなっていたが、別に直樹は石碑を見に来たわけではなかった。改めて何を、と問われても正確には答えることはできなかったが。強いて言えば、ただ何となく、だろうか。
仕方なくこう答えた。
「ただの散歩」
石碑をちらりとひと眺めしただけで、直樹は再び歩き出した。
仕方がなく裕樹はもと来た道を、琴子は昨日とは逆方向から、直樹の後を追って歩き出した。
二人でまたあの動物が出てこないかきょろきょろしながら歩いているので、さほど広くない小道でお互いにぶつかり合ったりしながら別荘へと帰る道を歩いた。
直樹は背後でその気配を感じて歩きながら、琴子のレベルがまるっきり小学生の裕樹と同じであることに笑っていたが、周りに必死な二人は気付いていなかった。
やがて別荘に続く坂道に合流したが、琴子は分岐点で立ち止まった。
「ねえ、入江くん、昨日来てた管理人さんのところへ行って、あの石碑のこと聞いてみない?」
期待に満ちた視線を振り切り「嫌だ」と答えた。
「何で」
「面倒くさい」
「えー」
琴子はつれなく歩いて行ってしまう直樹の後姿を見ながら、裕樹を見た。
「じゃあ行こっか、裕樹くん」
「な、何で僕が。お兄ちゃーん」
そう言って直樹の後を追おうとしたが、琴子に腕をつかまれ、裕樹はそのまま琴子に連れられて坂道を下る羽目になったのだった。

坂を下りながら、裕樹はずっと文句を言い続けていた。
「別に石碑に呪いがあるかどうか聞くわけじゃないからな」
「わかってるわよ」
「僕はちょっとした研究のために聞くんだからな」
「サルの研究?」
「石碑のことじゃないのかよ」
「それもあるけど、もしも本当にあの石碑にのろいがありますって言われたら…どうしよう」
「そ、そんなわけ…」
反論しようとして裕樹は黙った。
実は呪いがありますと言われたら、兄のために呪いを解く方法も聞かなければならないと考えた。
いや、まさか、そんなことはないだろう、と言い聞かせながら。

 * * *

一人別荘に戻った直樹だったが、帰り着いた途端に紀子の「裕樹と琴子ちゃんは?」の言葉にうっかり「管理事務所に行った」と答えたため、「二人だけで行かせるなんて!」と再び別荘を追い出されることになった。
このまま涼しい場所で戻ってくるまで時間をつぶそうかと思ったが、「ちゃんと迎えに行かないとお昼抜きにするわよ」と紀子が腕を組んで坂を下りていくのを見張っていたため、直樹はかなりの仏頂面で管理事務所に向かって歩き出すことになったのだった。

 * * *

行きは車で上がってきた緩く長い坂道を下り続け、琴子と裕樹はようやく管理事務所に着いた。
小さな事務所に入っていくと、中には女性一人しかおらず、昨日会った犬神はいなかった。

「すみませーん」

持ち前のずうずうしさで琴子が声をかけると、女性は顔を上げて戸口まで出てきた。

「はい、お待たせしました。どんな御用でしょうか」
「あの、そこにある湖のことでお聞きしたいんですが」
「ああ、鬼首のことですね」
「お、おにこうべ?」
「ええ。鬼の首と書きまして、おにこうべ、です。いえ、正式な名前ではないらしいんですが、この辺の者はそう呼んでおります。なんでも昔は湖が上から見ると鬼の頭のように見えたということなんですが、真偽は定かではありません。ただの言い伝えのようですし」
「はあ、おにこうべ、ですか」
「あの湖の下のほうに石碑があるんですが、あれは何の石碑でしょうか」
裕樹が口を挟んだ。
「石碑、ですか…。ちょっと今すぐにはわかりかねますが。
申し訳ありません、私がこの土地のものではない上に、こちらに来てからまだ3年余りなものですから、詳しいものに聞いてみますが」
「そうですか。では、あの、昨日お会いした犬神さんはどちらに」
「いぬ…かみ…ですか?」
「はい、犬神さんです」
「…ええと、どちらのいぬかみでしょうか」
「別荘を世話してくれたと聞いてますけど」
「…いぬかみという者はこちらの事務所にはおりませんが…」
「いない?!」
琴子は裕樹を振り返った。
二人で目を合わせ、もしや犬神という者すらも何か怪しいのかと青ざめた。
「あ、もしかしたら…」
そう言って女性は慌てて書類をめくる。
そして書類を見た途端に青ざめた。
青ざめたまま唇を震わせながら言った。
「あの、あの、犬神、はおりませんが、犬神神社なら、すぐこの近くにあります」
「神社?」
「ええ。その、えっと…申し訳ございません」
そう言って頭を下げる。
女性はなかなか頭を上げず、琴子と裕樹はふらふらとそのまま事務所を出て行った。
二人が出て行くと同時に女性は電話を取り上げ、慌てて電話をかけ始めた。

「ええ、申し訳ありません、ついうっかり…」

そんな声が切れ切れに聞こえたが、犬神という者がいないと言われた琴子と裕樹は、そのショックのあまり無言で下りてきた坂を上り始めた。
結局石碑のことは聞けず、昨日会った犬神が存在しないと言われ、どうしていいのかわからなかった。
事務所から長い坂を上ってカーブを曲がったところで、思いがけない人物と会った。

「入江くん!」
「お兄ちゃん!」

二人は坂を上る疲労も忘れて直樹の下へ駆け寄った。
「お兄ちゃん、犬神なんて人いないって」
「入江くん、犬神神社の呪いよ!鬼の首なのよ!」
二人してわめいた言葉に直樹は眉をひそめて立ち止まった。
元はと言えば紀子に言われて追いかけてきたようなものだが、とりあえず坂を全部下りきる前でよかった、と思った。
それに加えて、犬神なる人物がいないとか、神社だとか、鬼の首だとか、訳もわからずわめかれて、直樹は大きなため息をついて言った。
「…裕樹、落ち着いて話してみろ」
そう直樹に言われて、ようやく二人は安心できる人物に会ったと直樹にしがみついたのだった。

(2011/08/03)


To be continued.