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「つまりその犬神という名前の人はいなかった、と」
「そうそう」
琴子がうなずいた。
「ついでに石碑の由来もわからなかったって?」
「そうなんだ。お兄ちゃん、僕は江戸時代のものかと思ってるんだけど」
ようやく話を理解して、直樹は二人を連れてもと来た坂道をゆっくりと引き返していた。
空気は東京よりひんやりとしているが、日射しの暑さは変わらない。
舗装されたアスファルトが途中までは続いているので、照り返しもあって既に汗だくだ。
他の別荘へと続く道を過ぎると、アスファルトの舗装はいつの間にか途切れている。
ここから先は私道の範囲に入るのかどうか直樹は知らなかったが、あの湖の下に道が続いていることを歩いてきて初めて知ったのだから、入江家の別荘を含む周辺の土地も所有はどこまでなのか定かではなかった。
下手をするとあの湖付近まで所有になっているのかもしれない。
「あたしはその神社も確認してお払いしてもらったらいいと思うんだけど」
「お払い?」
「そう、のろいの」
「…ったく、何が呪いだよ」
暑くてイライラするせいなのか、琴子の言葉もいちいち癇に障り、思わず舌打ちしてしまう。
「だ、だって、あの石碑がもしも触るとたたりがあったりする石なら、入江くんの命は…」
「勝手に殺すな」
「もしも入江くんが死ぬなら、私もあの石を触るから」
「…だからあれくらいで死んだり、祟られたりしない」
それでも、その別荘管理事務所の従業員の態度は気になった。
犬神という人物がいないのなら、昨日会った人物は多分名前が違うのだろう。
それが一番自然な考えだ。
仕切りが紀子であることを考えると、何か裏でとんでもないことが進行しているんじゃないかとさすがに不安になった。
あまりにも別荘に着いてから不審なことが多すぎる、と。
「腹減った。帰って飯食うぞ」
それだけ言って、直樹は黙々と坂道を登り始めた。
琴子と裕樹はその後を追って同じように歩き始めたのだった。
* * *
やっとのことで別荘に着くと、紀子は冷たい冷麦を用意してくれていた。
三人は坂を上りきって疲れていたが、冷たい昼食によって生き返る思いだった。
「結局何もわからなかったの?」
「犬神さんなんていなかったよ、ママ」
「変ねぇ、違ったかしら。
あの方、普段は神社のほうのお世話もしている方なのよね〜」
紀子の返答はあまりにも怪しかったが、どちらにしても紀子が真実を言わない限り『犬神』氏の名前はわからない。
犬神神社と関係があるならば、その神社の名を名乗っても全くの嘘ではないというくらいだろうか。
やがて冷麦をおなかいっぱい食べ終わった琴子と裕樹は、午後の予定について検討し始めた。
直樹は嫌な予感がしてその場を立ち去ろうとした。
「お兄ちゃん、神社ってどこにあるのかな」
すかさず裕樹が声をかけた。
「やっぱり次は神社よね」
琴子もうなずく。
別荘で過ごす夏は短いが、まだ昨日着いたばかりでこれほど性急に周辺探索をしなくてもいいのではないかと直樹はこのまま無視して二階へ行こうかと迷った。
しかし、質問をした裕樹のことを考えるとそうもいかず、直樹は仕方なく答えた。
「管理事務所から東への道を行けばあるんじゃないか?」
周辺集落のことも気になっていた直樹は、朝食の後で周辺地図を確認したのだが、あまり人のいない地域でもあり、大まかな道しか記載されていなかった。
もしかしたら地元住民が使う小道くらいはあるのかもしれないが、昨日今日着いたばかりの自分たちでは迷子になる可能性もあるため、無難にわかる道を行くのがよいと考えていた。
「またあの道かぁ」
琴子が少し嫌そうにつぶやいた。
「どれくらい時間かかるかな」
裕樹は計画的に時計を見ながら考えている。
日没までに戻って来れなければ山道は厳しい。
いくらそれほどの距離はないとは言っても慣れない道である。しかもただでさえ道に迷いやすい琴子が一緒では安心できるものではない。
しかも今回はまだ行ったことのない山道を歩きながらの神社探索である。
「明日にしようか」
「僕一人なら行けるけど」
「山道を?一人で?」
琴子がからかうと、裕樹は少しだけ顔を赤くして答えた。
「どうせ琴子が怖いんだろ。仕方がないから明日にしてやるよ」
琴子は強がりな発言を見逃してやりながら言った。
「明日はお弁当作ってピクニック気分で行こうかな。ね、入江くん」
「行かねーよ」
直樹はぞんざいに答え、一つため息をついて二階へと上がっていった。
琴子は頬を膨らませて不満気に「入江くんのけち」とつぶやいたが、裕樹はできれば琴子と二人で行くのは避けたかったので、後でさりげなく直樹も一緒に行ってくれるように自分で頼むか、いざとなったら紀子にも頼んでもらおうと思っていた。
「琴子ちゃん、途中までなら車に乗せていってあげるわよ」
「本当ですか?」
「ええ。でも、道が細いから、管理事務所の辺りまでしか車が入れないんだけど、いいかしら。帰りも迎えに行くタイミングがわからないけど、管理事務所で電話してもらえばいいわ。
お弁当も一緒に作りましょうね」
「はい!」
元気に返事をした琴子にうげーと舌を出しながら裕樹が立ち上がった。
「僕も二階へ行こうっと」
紀子に睨まれ、裕樹は直樹の上がっていった後を追いかけて二階へ駆け上がっていった。
琴子はあの石碑についてあれこれと考えた。
のろいというのは一体どれくらいで効いてくるものなのだろうか、とか、なぜ触っただけの人が呪われなければいけないんだろうか、とか、およそ確かめようがないことを考え続けたが、意を決して立ち上がると帽子をかぶり、再び別荘の外へと出かけていったのだった。
* * *
目の前の石碑を眺め、何か手がかりがないものかと周りをきょろきょろと探した。
何かを見つけるつもりではなかったが、その石碑の近くにきらりと光るものを見つけた。
「何だろう、これ」
手に取ると、小さなオープンハートのネックレスだった。銀色に光るそれを光にかざし、琴子は誰かがここに落としてしまったのだと解釈した。
別荘地に来ているのは入江家だけではないだろうし、地元の住人だってたまには来るだろう。
ネックレスを手に持ったまま、もう一度石碑を見てみた。
石碑自体に裕樹が見つけた以上のものはわからなかった。
難しい年号など知らないし、かすれて字が読めないのだから読みようもない。
直樹が触って差し障りがあるなら、自分も触って共有しようと試みた。
動かすまではいかないまでも、そっと石碑に触れてみた。
何かすぐに障りがあるわけではないらしい。もちろんこれは直樹を見ていればわかることだが、いつどのようなタイミングでたたりがあるのかもわからない。
琴子は気をよくしてペチペチと軽く石碑を叩くようにして触り、「うん、大丈夫、大丈夫」と独り言を言ってみた。
ついでに手に持っていたネックレスを石碑にかけて満足そうにすると、別荘へ帰ることにした。
ところが数メートル歩いたところで後ろで「うわっ」という声がし、琴子は振り向いた。
いつの間にかあの青年が石碑に向かって立っていたのだった。
(2011/08/08)
To be continued.