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「あ、あの…そのネックレスを落としたのはあなただったんですか」
立ち去ろうとした琴子だったが、石碑にかけたネックレスを青年が見て驚いているのを知り、思わず声をかけた。
「え…」
思いがけず横から声をかけられ、青年は琴子のほうを見た。
「あなたが見つけたんですね」
「ええ。誰かの忘れ物だと思ってかけておいたんです」
「そうですか…。実は昨年僕が落としたんです」
「じゃあ見つかってよかったですね」
「…遅かったですけどね」
悲しそうに笑った青年に、琴子は小さく聞いた。
「誰かへのプレゼントだったんですか」
「…ええ、まあ」
ネックレスをどうしようかと見つめたままだった青年は、琴子の視線を感じて言った。
「あ、よかったら差し上げましょうか」
「え?い、いえ、あたしは…」
「あ、ああ、そうですよね。人にあげる予定だったものを他人様になんて。それに見ず知らずの者からここに一年も落ちていたものなんて…」
「そ、そういうわけじゃ」
「いえ。僕はこういう気の利かないところがあって、だからきっと彼女も…」
好奇心丸出しで琴子は聞いた。
「あの、その彼女は…」
「昨年まで近くの別荘に来ていたんですが、その秋に…」
「そうですか、お気の毒に」
そう言った後、二人は黙り込むことになり、なんとなくしんみりとした雰囲気を打ち破るように琴子が勢い込んで言った。
「あの、この石碑ってどんなものかわかりませんか」
「石碑?ああ、これのことですか」
「そうです、そうです。触るとたたりがあるとか、動かすとのろわれるとか」
「祟り…」
青年は微笑んで言った。
「大丈夫ですよ。僕も何回か触ってますが、一度も祟られたことなんてないですから」
「そうなんですか、よかった」
「ただ、この石碑の謂れはよくわかりません。少なくとも僕がここへ来るようになった幼少時にはすでにあったと思いますし」
「じゃあ、古いものであることは確かなんですね」
「ええ。お松ばあさんだったらわかったのかな。どちらかというと湖のほうが…」
「み、湖って、これですよね?」
そう言って琴子は横の湖を指した。思わぬことを言われて青ざめる。
「ええ。その昔は鬼の頭に似ていたということで、いつの間にか鬼頭と呼ばれてますし、魚はいるんですが全く釣れないらしいですし、冬はどれだけ寒くても凍らないということですよ」
琴子は青年の話はさほど怖くないと判断し、ほっとした様子で答えた。
「へぇ、そうなんですか。じゃあ、あの犬神神社はどういうところなんですか」
「犬神神社ですか…。どうなんだろう。いたって普通の神社のような気がしますが。どちらかと言うとこの辺の氏神様というか」
「じゃあ、のろいとは何の関係もないんですね…」
「どうしてそんなに呪いとか祟りとか気になるんですか?」
そう聞かれると、琴子は面と向かって祟りだとかを口にするのが申し訳ないような気がしてきた。少なくともこの青年は地元の人間のようだし、と。
「ええと、その、入江くんが、その石碑をつい、あ、本当につい、なんですよ?つい、動かしてしまって、何か古そうな石碑ですし、祟りとかあったら嫌だなぁって」
青年はくすくすとよく笑ってから言った。
「さすがに僕は動かしたことがないからわからないけれど、そんなに心配なら明日犬神神社に行ってみますか?」
「あ、ちょうど行こうと思ってたところなんです」
「よかったら道案内しますよ。でも、まさかお一人じゃないですよね」
「裕樹くんも一緒なんです。もしかしたら入江くん、もかもしれないけど」
「前に少しお会いした背の高い方が『入江くん』なんですね」
「そう、です」
「さすがに僕と二人で行くには親御さんも心配になるでしょうし。
そう言えば、まだ名乗ってもいませんでしたね。遊佐一郎です」
「琴子です。相原琴子といいます」
そう言うと、琴子は頭を下げて笑った。
「あっと…いけない、ばあさまを探してたんだった。では明日、ここで10時に」
「え、でも」
「ここからだとすぐですよ。その代わり歩きやすい格好でお願いしますね」
「あ、はい」
琴子が返事したのを機に、青年・遊佐はまた草むらを掻き分けて戻っていった。
別荘への帰り道を歩きながら、少し軽率だったかと思ったが、琴子はとりあえずのろいの類は存在しないかもしれないと希望が持てたため、帰りの足取りはずっと軽かった。
ただし、その喜びも別荘に帰り着くまでだったが。
* * *
「知らないやつにほいほい付いていくやつがいるかよ」
遊佐の話を喜び勇んで直樹に話すと、そう言って機嫌を悪くした。
「でも入江くん、近道を教えてくれるなら便利だと思わない?」
「裕樹もいるんだぞ。誘拐でもされたらどうするんだ」
「そんな人には見えなかったけど」
「大体そんな気軽に初対面の人間が連れて行くなんておかしいと思わなかったのか」
「前に一度会ったでしょ」
「…あれを会ったと言えるなら、すれ違う人間全部知り合いだな」
「でももう約束しちゃったし、そんなに心配なら入江くんが付いてくれば問題ないんじゃないかな」
「ナイスよ、琴子ちゃん」
それまで黙って成り行きを見守っていた紀子は、つい我慢しきれずに口を出した。
直樹は眼光鋭く紀子を睨むと、琴子を見て額の血管を浮かび上がらせながら言った。
「おまえは…誘拐でも拉致監禁でも勝手にされてこいっ」
「何言ってるのよ、お兄ちゃん。可愛い琴子ちゃんがその遊佐さんになびいちゃったらどうするのよ。ひと夏の恋よ。琴子ちゃんをとられちゃうのよっ」
怒りながら二階へと上がっていく直樹の背を追いかけながら、紀子はしつこく食い下がって同じく二階へ。
琴子はそれを見ながら遊佐の連絡先も知らないので断りようもないとため息をついた。
裕樹は夏休みの宿題なのか絵日記を広げて書き込みながら「バーカ」とつぶやいている。
重樹は苦笑いしながら見守っていたが、不意に鳴った電話に出ると「やあ、アイちゃん」
と話し始めた。
琴子はそう言えば今日は重雄が来る予定だったと思い出した。
「うん、うん、そうか。わかった。じゃあまた連絡してくれな」
重樹が受話器を置くと、残念そうな顔で琴子に言った。
「アイちゃん、お得意さんの用事ができて、今日じゃなくて明日になるそうだよ」
「もう、お父さんったら、せっかく誘ってくれてるのに」
「まあ、アイちゃんも客商売だから」
そこまで言ったとき、二階からぷりぷりと怒ったままの紀子が下りてきた。
「電話はどなたから?」
重樹は重雄から電話があったことを伝えたが、紀子も残念そうに「まだ日はあることだし」と言っただけで、先ほどの怒りのまま琴子に向かってぴしゃりと言った。
「こうなったら明日は豪華弁当を持っていってもらって、遊佐さんと仲良くなってお兄ちゃんを後悔させてやりなさいな」
「…後悔しないと思うけど」
裕樹の声がぼそりと響いたが、興奮した紀子には幸い聞こえなかったようだ。
琴子は仕方なさそうに笑って外を眺めた。
先ほどよりも迫った夕闇に湖が反射してオレンジ色に輝いている。
確かにこちらへ着てから一艘の釣りボートも見かけない。
鬼頭とは言われたものの、それほど湖に忌まわしい話が似合うとも思えなかった。
これで神社にも行ってみれば、怖いことは何もないだろうと琴子は考えていた。
明日になればこの不安も恐らく解消されるだろと思うと、琴子は明日を待ち遠しく思うのだった。
(2011/08/13)
To be continued.